碧い人魚の海
 貴婦人は、そう首を傾げた。ベール越しの視線は、おそらく眼鏡男をまじまじと見ているのであろう。
「かつてのわたくしの求婚者ということでしたら、貴族か貴族のご子息かと思うのですが、その貴族のご子息が、中央の軍でも海軍でもない町警察に、しかも将校ではなく一兵卒としていらっしゃるのは、どうしてですの?」

「お察しの通り、今のわたしは貴族でも何でもありません」
 男の形のよい薄い唇に、微かに苦味の混じる笑みが浮かぶ。
「わたしの名前はアントワーヌ・エルミラーレンです。父の名前はウィルヘルム・エルミラーレンで、祖父がエルミラーレン公爵だと言えば、思い出していただけるでしょうか?」

 ルビーには全く聞き覚えのない名前だった。しかし、ブランコ乗りと少年は、同時にさっと眼鏡男を見た。
 制止されるよりも早く、少年が驚きの声を上げる。
「それだとカルナーナの王様の子孫ってことじゃないですか。エルミラーレン公爵は、25年前の革命で処刑された王族の一人だ。でも、どうして隊にいるときは名前が違うのですか?」

「きみはまだ若いのに、歴史に詳しいんだね」
 眼鏡男は妙に優しげな調子で返した。口調は柔らかいのに底に冷たさを隠しているような声に、ルビーはざらざらとした違和感のようなものを覚え、思わず顔を上げた。

 少年兵は、全く気付いていない様子で、嬉しそうな顔になる。
「はいっ。入隊試験のため、歴史を一生懸命勉強しました」
 眼鏡男は色のない目で隣の少年を見おろし、歌うような不思議な声で言った。
「だが、ジョヴァンニ、きみはここで耳にした、わたしの出自にまつわる話は、すべて忘れなければいけないよ」
「……はい」
 少年は突然、魂の抜けたような抑揚のない声になって、無表情に頷いた。

 ルビーは息をつめて、眼鏡男をじっと見た。男の言葉の中に、別の何かがこもっているのを感じたからだ。いまの声色はなんだったのだろう。布か何かでふき取るように、隣の少年の声の抑揚と表情を拭い去った。
 不意に、ちりちりと首の後ろが焼けるような心地がした。ルビーの心のどこかが、この男は危険だと告げている。
 しかし男は素知らぬ顔で、再び貴婦人に視線を移す。
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