碧い人魚の海
「もちろん普段は町警察などにはおりません。中央で、名前は伏せて、とある陸軍部隊の副官を務めさせていただいております。きょうは、逃亡奴隷の件で、このお屋敷に取り調べが入るという話を小耳にはさみましたので、急遽、担当の部隊のメンバーの一人と入れ替わって、同行させていただきました。こうでもしなければ、社交界に出て来られないあなたにお目にかかる機会がなかなか持てないものですから。入れ替わったとはいえ、小さな分隊の副長に軍の副官は務まりませんので、表向きはわたしは急病で休養中ということになっておりますが」

「それはとても興味深いお話ね」
 貴婦人の声はその言葉の通り、むしろ面白がっていて、妙に緊張したいまのルビーの心情とかけ離れている。
「あなたの横で急にぼんやりしてしまった坊やも、あなたの隊の隊長さんも、あなたがいつも行動を共にしている副長さんではなくて、きょう一日だけのにわか副長さんだと気づいていないみたいでしたわ。きょうはあなたは、本物の副長さんに似せて、姿かたちを変えていらっしゃるの? それとも姿かたちはもとのあなたのままで、分隊長さんたちを、催眠術にでもかけていらっしゃるの?」

「どちらでもないですよ」
 男は唇の両端を吊り上げて、酷薄にも見える薄笑いを浮かべた。
「ただ命令をして、いうことをきかせるのです。それだけです」

「本物の副長さんはいまどちらに?」
「いま説明したと思いましたが。きょうはわたしと入れ替わって、陸軍司令部の医務室で休養中です。明日には何事もなく、町警察の副長として復帰していることでしょう。──いや、そんなことはどうでもいい」
 アントワーヌ・エルミラーレン、エルミラーレン公爵の孫、と名乗った男は、ついとテーブルを立ち、貴婦人のもとに歩み寄ると、その足元に膝をついた。

「いまここで、名乗りをあげてしまいましたので、わたしがここを訪れた目的もお伝えしようと思います。食事中に席を立つ無作法はお許しください。レディ・ブリュー、わたしはきょう、あなたに求婚にまいりました。お父上の亡きあとの領地にお戻りになって、わたしと結婚していただけませんか?」
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