碧い人魚の海

 32 入れ替わった男

32 入れ替わった男


「エルミラーレンさま、お顔をあげてください」
 返す貴婦人の声は、静かだった。
「あなたのなさろうとしていることは、意味がないことだとわたくしは思います。ブリュー家は爵位を返上しますの。領地は国に上納します。きのう、首相にもその旨お伝えしました」

「首相はそれをお認めに?」
 男は即座にそう問い返した。
 貴婦人はそれには 答えない。
 黙りこくった彼女の様子を見て、男の頬に、薄く笑みが浮かぶ。

「いや、そんなことが認められるわけがない。カルナーナには今、王が不在だ。つまり、新たに爵位を授与できる立場の者がいないのです。この意味がレディ・ブリューにはおわかりか? このままでは、アララーク連合での公的な式典などの参列者として名前を連ねる人材が不足してしまうのですよ。これは今後、連合国内でのカルナーナの発言力を狭めかねない、深刻な問題です」

 やはり貴婦人は何も答えない。
 彼は悦に入った顔で説明を続けた。

「もっとも、首相は王政復古も視野に入れているようですね。つまり、カルロ・セルヴィーニはいま、実権のない名前ばかりの王を求めています。ですが、まだ時期尚早であるともご判断のようです。かつて革命は成功したが、その直後の混迷期を経て、国民の亡き王への憧憬は強まりました。いまの首相が混迷を抑えて新政府による政策を軌道に乗せましたが、恒久的な国民の信頼を得るにはいまだ至っておりません。
 ところで、レディ・ブリュー──」

 男は立ち上がりながら、一度貴婦人を振り返り、それからゆっくりと他のものたちを見回した。

「わたしは実権のない名前ばかりの王には興味はありません。それよりも、自分だけの領地と領民がほしい」

 こちらに向き直った眼鏡男に対して危険を察知したのは、その場にいた他のだれよりも、ルビーが早かったと思う。

 男の紡ぐ声が、部屋の中に響き渡った。さっきと同じ不思議な韻律の声色が、少年とブランコ乗りの名前を紡ぐ。

ジョヴァンニ。
アルトゥーロ。
殺し合え。

 灰色の瞳がブランコ乗りの視線を捉えて覗き込み、その名前を呼ぶのとほとんど同時か、それよりも早く。
 ルビーは飛びつくようにしてブランコ乗りの腕をつかんだ。
『アート! あたしの声だけに集中して』
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