碧い人魚の海

 33 言霊の魔術

 さっきまでアントワーヌ・エルミラーレンだった男は、不審げに周囲を見回した。
「これは何の騒ぎだ?」
 散乱した食器と、床に伸びた少年の姿が視界に入ったのか、男は顔をしかめた。
「ジョヴァンニ。おまえなのか? 一体おまえ、何をやらかしたんだ?」
 気を失ったままの少年からの返答はない。

 廊下の向こうから、早足で近づいてくる足音が聞こえた。
 開いたままのドアから、いつかルビーが見たことのある、太った男が大股で入ってきた。あいかわらず下町の庶民が着るような、ありふれた服を着ている。
 その後ろには、急いでついてきたらしいこの屋敷の執事の姿があった。

「首相!」
 太った男の姿を見た貴婦人が、驚きの声を上げる。
「どうなさったのですか? なぜまたここに?」

「なぜここに、ではないだろう」
 太った男はつかつかと貴婦人に歩み寄る。
「逃亡奴隷の事件に巻き込まれたと聞いて、ゆうべの外出についてあんたが濡れ衣を着せられていてはいけないと思って、駆けつけたんだがね。来てみたら、とんでもない不穏な気配を感じたから、取るものもとりあえず中に入らせていただいたんだが……さっきまで、屋敷に何か来ていただろう。何がいたのだ?」

「アントワーヌ・エルミラーレン王兄殿下の孫君がお越しでした」
 ゆったりと微笑む気配を見せて、貴婦人は答えた。
「ですが、あなたにお会いしたくないとおっしゃって、先ほど帰られました」

「何が起こったか、聞かせてもらえるかな?」
 貴婦人は頷いた。
「別の部屋にご案内しますわ。ここは片付けさせます」
「場所を移すほどのこともなかろう。ああ、椅子を借りるよ」
 カルナーナの首相は、さっき貴婦人が座っていた椅子を適当な位置まで動かして、どっかりと座った。
 それから執事の方を向いて、きびきびと言った。
「わしに構わず、片づけを始めてくれ。そちらの若い兵には念のため、ベッドと医者を。残りの者には──」
 ぐるりと周囲を見回しながら、太った男はぐいと身を乗り出した。
「話を聞こうじゃないか」


 貴婦人とブランコ乗りの短い説明だけで、この場に居合わせただれよりも正確に、首相は状況を理解したらしい。
 しかも、ある程度の魔法の残滓のようなものを、この太った男は読み取れるらしかった。

 さっき皆の前で劇的な変身を遂げた眼鏡の男にも、首相は手短に説明を求めた。
< 164 / 177 >

この作品をシェア

pagetop