碧い人魚の海
 部下に命じて、女性の愛人だという軽業師の男を斬り殺させようとしたらしい。あまつさえ、自分でも剣を抜いたということだった。
 自分の仕事は治安の乱れを正すことであって、風紀の乱れを正すことではない。そんなことは、まったくもって大きなお世話だ。

 意識が飛んでいる間、何の脈絡もなく、どこかの別の見知らぬ場所のベッドの上にいて、消毒液と薬品の臭いに囲まれてぼんやりしていたような記憶が混ざる。
 意味がわからない。

「ふむ」
 副長の問いかけに対し、首相は厳しい顔になる。
「一度、魔力で支配を受けてしまうと、そこから抜け出すのは非常に難しいのだよ。それはおまえさんの隊のほかの隊員も同じだ。皆、言霊の魔術で支配されてしまっている」

 そこで首相は、不意にルビーを見た。
「人魚」
 そう呼ばれ、ルビーはひるむ。
 この人の目は、やはり怖い。
「おまえも、言霊の術を使っただろう」
「何のことですか?」
 つい目をそらしたくなったが、どうにか持ちこたえる。
「名前を呼んで、名前で縛り、命ずる術だ」
「さっきの男に帰れと言ったことですか?」
「そうではない。ああいう化け物には言霊は利かん。後ろの若者だよ。さっきおまえさんは、そちらの若者に、図らずも強力な術をかけてしまったようだが」
 首相はブランコ乗りに目をやった。
「何の言葉で縛ったのかね? 強い、そう、とても強い呪力だ。命ぜられたものは、決して逆らえなくなる。そうやって、魔は人を絶対的な支配下に置くのだ」

 首相が言っているのはきっと、さっきの危険な男が、憲兵の少年の名前とともにブランコ乗りの名前を呼ぼうとしたときの話だ。男の声を遮り、自分の声だけを伝えた。
 とっさのことだったし、必死だったから、自分が何を伝えたのかよく覚えていない。
 ブランコ乗りが驚いた顔で、何か言いかけてやめたことだけ、覚えている。
 ルビーは思い出そうとした。

「ロビンが声に出さず、伝えてきた内容のことですか?」
 ブランコ乗りが助け船を出した。
「自分の意思以外で動いては駄目、だったと思います。つまり、自分の意思で動け、人の命令は聞くなってことですね」

 一瞬、首相はぽかんとした顔をした。
「なんと……」
 それから彼は片方の眉をあげ、にやりとした。
「束縛の呪術に、解放の呪文を乗せるとは、おもしろい」
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