碧い人魚の海
 片方は男の声で、もう片方は女の声だった。
 女の方は、貴婦人の声のような気がする。でもよく聞き取れない。
 ルビーは窓から身を乗り出し、庭を見下ろした。
 開いた門から入ってすぐのところに二頭立ての馬車が停まり、馬車の影で、ブランコ乗りが貴婦人を抱きしめキスをしていた。

 ずいぶん長い抱擁のあと、貴婦人はブランコ乗りの肩をそっと押し、身を離した。
「あなたも困った人ね、アーティ。一度帰したのに、勝手に押しかけてくるなんて」
「奥さまがつれないからです。あんな人魚など選んで、ぼくを帰してしまわれるなんて。奥さまがお決めになったことだからと一度は思ったのですが、どうしてもあきらめきれなくて、こうして戻ってまいりました」
 呆れた様子の貴婦人に、ブランコ乗りは強い口調で言い募った。

「それがね、アーティ、わたくしにも理由はよくわからないの。きょうは、ただ、何となく人魚を選ばなければいけないような気がしただけなのよ」
「では、今からでも、あの娘は帰して、ぼくを選び直してください。もうじき一座は巡業の旅に出て、しばらくはお目にかかることも叶わなくなります。あなたに焦がれる可哀想なこの曲芸師を、少しでも哀れと思ってくださるなら、奥さまのお時間を少しでも恵んではいただけませんか?」

 貴婦人が笑う気配がした。
「あなたときたら、相変わらず口がお上手だこと。これまでだってわたくしはあなたとハルを交互に選んできたのに、あなたではなくハルを選んだときには、何か言ってきたことなど一度もなかったわ。きょうに限って押しかけて来たのはどうして? ほんとうはわたくしではなく、あの人魚が気になるのではなくて?」

「めっそうもない」
 ブランコ乗りは、驚いた顔をして、大きく首を振った。
「押しかけて来たい気持ちはいつでも持っております。ですが、正直、ナイフ投げには叶わないとも思ってきました。ナイフ投げを差し置いてしつこく言い寄っても奥さまに疎ましがられるだけだと思い、遠ざけられたらどうしようと思って、ずっと耐えてまいったのです」

「本当に口がうまいこと」
 優雅に貴婦人は微笑んだ。
「まあいいでしょう。そういうことにしておきましょうね。ついておいでなさい、アーティ。人魚はこちらよ」


 再びルビーはブランコ乗りに抱きあげられて、馬車に運ばれた。
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