碧い人魚の海
 馬車に乗り込むとき振り返ってみると、舞姫とナイフ投げが心配そうにこちらを見ていた。きょうは公演のない日だったからブランコ乗りはいなかった。
 ロクサムの姿も見当たらなかった。多分どこかで用事を言いつけられて一心不乱に働いているのだろう。

 馬車にはルビーと座長のほかに副座長も乗っていた。そしてなぜか、他の幹部の人間も乗っていた。一人は経理と呼ばれ、もう一人は広報と呼ばれている男だった。
 そして、向かったのはなぜか町のお役所などではなく、アシュレイが夕食になって出てきた、あの貴婦人の屋敷だった。

 貴婦人はきょうも黒いベールのついた帽子をかぶって顔を隠していた。
 彼女はルビーの姿をひと目見るなり、満足そうに微笑んで、座長を見た。
「よかった。用意させた服、あつらえたようにぴったりだわ」
「恐れ入ります、奥さま」
 座長はうやうやしく返事をした。
 貴婦人は首を傾げた。
「でも、髪がぐしゃぐしゃではなくて。いらっしゃい、人魚。髪をすいてあげる」

 ルビーはわけがわからずに、座長を見た。
 座長はルビーの視線を無視し、貴婦人に向かって揉み手をした。
「それより奥さま、まず、いかほどでお考えでいらっしゃるのかを、お聞かせ願えますか?」
「そういう無粋な話は執事に任せてあるから、彼と話し合ってちょうだい」

 貴婦人の横にいた執事が一歩前に出てきて、一礼をした。
「こちらのテーブルへどうぞ。お願いした書類はご用意いただけましたか?」
「書類でしたらここに」
 副座長が頷いて、革の鞄の中からノートやら紙やらを出してきて、促されたテーブルの上に並べた。

「どういうこと?」
 ルビーはもう一度座長を見た。
 貴婦人が、おっとりとした口調で言った。
「まだ教えてもらってないのね、人魚。あなたは見世物小屋を出て、わたくしのところに来ることになったのよ」
「聞いてません」
 ルビーはその場に突っ立ったまま、座長を睨んだ。

 少し苛立った口調で、座長は説明した。
「ごくつぶしを養っていけるほど、見世物小屋には余裕がないんだ」
「ごくつぶしじゃありません。空中ブランコを習うって言いました。下働きの仕事だってなんだってします」
「洗濯女が言っていたらしいぞ。おまえに手伝わせたら失敗ばかりでかえって仕事の手間が増えて困るそうだ」
「あたしはちゃんとやってます」
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