碧い人魚の海
 それはロクサムにとっては、ただ運がよかっただけなのだと、今さらのように気づく。けれども、どうすればいいのだろう。彼はこれまで他人に逆らってまで自分の意思を押し通したことなどなかった。生まれてこのかた、多分一度たりとも。

 短い会話の中で、少女はとつとつと、けれども一貫してロクサムに訴え続けた。ずっとロクサムの仕事を手伝いたかったのだと。時間さえあればロクサムのところに来たかったのだと。会いたかったと。
 見世物小屋に来て、ロクサムに会えてよかったと。ロクサムが自分を気にかけてくれているのが嬉しかったのだと。少女にとってロクサムは大切で、必要で、いまも失いたくない、かけがえのない友だちだと。

 友だち、という言い方をされたときには彼の胸はちくりと痛んだけれども、素直な気持ちを打ち明けられるのは嬉しくもあった。
 少女の紡ぐ一言一言には本当の気持ちがこもっていたから、心を揺さぶる力があった。やはり彼女は動物と同じなのだとロクサムは思う。ストレートで飾らない。本当のことしか伝えようとしてこない。だから少女の言葉を疑う必要がないことは、ロクサムにも理解できた。
 けれどもそれと同時に、彼女のまっすぐな気持ちがロクサムには眩しくて、そしてそこまで思われる理由も全然わからなくて、どう返事をしたらいいのかさっぱりわからなくなる。

 信頼に値しない人間を信頼してしまった動物の行く末は悲惨だ。ロクサムは生き物たちと心を通わせることはできたが、見世物小屋の動物の生殺与奪権は、常に座長が握ってきた。そしてそれを当り前だと思い込んでいた。座長に逆らってみようなどと、はなから考えてみたこともなかったのだ。
 そんな無力な自分を少女が信じ続けてくれるよりも、ブランコ乗りのような頼りになる相手と親しくしていてくれた方が安心な気もする。

 でもそれは、心が痛くて受け入れがたいことだとも思う。
 ロクサムは自分の内側にあるもやもやとした醜い感情に気づいてしまった。どす黒い渇望のような、目をそむけたくなるような感情だ。そんなものを少女にぶつけたくはなかったし、知られたくもない。

 返事に窮して無言でいたら、やがて寂しそうな顔になって、少女は黙った。
 それでもやっぱりどうしたらいいかわからなくて、ロクサムは黙ったままだった。


 それでも。
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