碧い人魚の海
 そのときにロクサムは、何か言うべきだったのだ。
 これまで少女と一緒に過ごした時間が、自分にとってもすごく楽しいものだったとか、なんとか。
 でなければ、ありがとう、の一言だけでもよかった。

 その時間を最後に、少女は見世物小屋から別の場所に売られていってしまったのだから。
 きゅうに決まったことらしく、座員のだれも前もって知らされていなかった

 以前からささやかれていたという、少女の買い手である貴婦人についてのよくない噂は、そのあと少し遅れてロクサムの耳にも入ってきた。
 舞姫とブランコ乗りとナイフ投げの3人とともに夕食会に呼ばれた夜、少女は他のメンバーよりも遅れて見世物小屋に戻ってきたのだった。
 噂では、そのとき少女は貴婦人のベッドの相手をさせられていたから、戻ってくるのが遅れたのだという。そして、少女はそのために魔術で人魚の尻尾を奪われ、人間の姿にされたというのだ。

 少女が姿を消した日に焼却場から少女を連れ去った雑用係の女が、通りがかりにその噂をロクサムの耳に入れていった。

「貴族は大体悪趣味だっていうからね」
 一座を食事に呼んだのは、とある身分の高い女性だとロクサムは聞いていた。
 ロクサムが不思議に思ったのがわかったのか、目の前の女は、聞くに堪えない憶測を展開させた。
「おおかた屋敷の下男かなんかの相手をさせて、自分は眺めてたんじゃないの? なんかそういう残酷な遊びがあるっていうじゃないの。まあ、自分の相手をさせたのかもしれないけどね。そういう趣味の人もいるっていう話だし。どちらにしても、あたしたち庶民には想像もつかないことだけどさ」

 ロクサムが噂をそのまま信じたわけではない。カルナーナの市民は皆、無類の噂好きだったから、ときおり話を盛り過ぎてしまう。噂に尾びれ背びれがついて、元の話とは似ても似つかぬ脚色をされて、一人歩きすることがままあるのだ。
 それに人間の姿に変わっても、ロクサムの知る限りでは、少女の中身は人魚のころと何も変わっていなかった。野草のように伸びやかで、野生動物のように誇り高いままだった。

 それでも、そんなとんでもない噂のある相手のところに、人魚の少女が買われていったことだけは事実だった。少女の過酷な運命を思い、ロクサムはどうにもならない己の無力さにうちひしがれた。
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