夢から始まる恋もあるのか?
夢から始まる恋もあるのか?
誰もいないオフィスで、私は息を詰めていた。
背には壁、向かいには私より大きな人影。顔の右横に手を突かれ、じりじりと迫られる。
逆光のせいで、人影の顔が良く見えない。
これっていわゆる、壁ドン……!!
「もう、逃がさないからな。晴香」
私の耳元で、人影がハスキーな声でつぶやく。私の中にある乙女の部分がぞくりと震えた。
この声、どこかで聞いたことあるのに、思い出せない……
私このまま、この人にキスされちゃうの?
誰だかわからないのに、不安感も嫌悪感もない。私っていつからこんな女に?
ああ、いよいよ唇が重なる……!!
ピピピピピピピピ、というけたたましい電子音が響いて、私は飛び起きた。
「……はは」
夢かよ!!!
「晴香!」
勤め先のビルのエントランスで名前を呼ばれ、私は立ち止まる。
「美雪」
「おはよー、ってやだアンタ、ひっどい顔」
「おはよう……あんたは相変わらずいつでも臨戦態勢だねー……」
パステルピンクの異素材が組み合わさったかわいらしいワンピースにベージュのトレンチコートを合わせたかわいらしい女子、同期の美雪が隣に並ぶと、私はこの朝何度目かのため息を吐いた。
女の子らしい格好をした美雪に対し、私はといえば、黒いジャケットにストライプのシャツを合わせ、下はジャケットに合わせてくるぶし丈の黒いストレッチパンツ。女子の服装に規定のないわが社においてすこぶる地味な格好だ。
い、いや、私はこれでいいのだ。女の子じみた格好なんて似合わないし……そう、お客様が来た時にジャケット着てないと失礼になっちゃうかもしれないし!
「今度一緒に服選びに行こう? 晴香の場合、自分のセンスに自信ないって言ってたじゃん」
「はい、おっしゃる通りですお願いします……」
瀬戸晴香、26歳。22歳で就職してからずっと、IT系企業の開発部で働いている。
生まれてこの方、異性とお付き合いしたことがなく今後もきっとないであろう、本当に女なのか謎な女だ。
だんだん自分が本当に女でいいのか不安になってきた今日この頃。美雪をはじめ女子力の高い友人たちがいなければ、本当にからっからの煮干しみたいな女になっているだろう、と思っている。
「しかし何でそんなげっそりしてるのよ」
「エレベーター降りたら話すよ……」
私と美雪はエレベーターで10階へ向かい、社員証を入り口でかざしてオフィスに入る。
その間に今朝の夢の内容を美雪に話すと、美雪はぶっと遠慮なく噴き出した。
「あんた、それ欲求不満なんじゃないの?」
「うるっさいな自分でもそう思ってますよ!」
「でも、そんなげっそりする必要なくない? 彼氏いたことないんでしょ晴香。そういう夢の一つや二つ」
「なんかショックだったんだよね~……自分もやっぱり男の人にそういうことされたいって願望があったんだなーと思ってさ」
美雪みたいな女性らしい女の子がそういうことを求めるならまだわかるし、実際に起こりうることだろうからいいのだけど。私の場合、ちょっとやそっとのことじゃ今朝の夢のようなシチュエーションは発生しないし、私自身そういうのは無くていいって思ってたから、夢になって透けて出てきた深層心理にショックを受けているわけだ。
「よし! そんな晴香のために合コンもセッティングしてあげよう!」
「はあ? いいよそんなの」
「何言ってんのよ。きっとその夢は『そろそろ恋人くらい作れ』っていうお告げよ。自分の中の女に気が付いた今がいいタイミングじゃない。ね?」
「そ、そうかなあ」
「そうだよ! よっし、私燃えてきた! さっそくメンバー集めてセッティングを……」
「朝からうるさいぞお前ら」
突然割って入ってきた低い声に、私と美雪は固まった。
「た、田所課長……」
声をかけてきたのは、わが社のホープ、最年少課長の田所課長だ。まだ30代半ばなのに課長になり、開発部第一課をまとめている。きっちりしたスケジュール管理と良品質の納品物は評価が高く、客との折衝もお手の物で社内の信頼が厚い。
どうやらとんでもない会話をしているところを聞かれてしまったようだ。私はひっそりと肩をすくめる。
「元気なのはいいが、就業時間が近いんだからちゃんと準備しとけよ」
「は、はい」
「瀬戸、今日までのプログラム、ちゃんとできてるか」
「あ、はい。もちろんです」
「この前みたいにつまらないバグ出したら張り倒すからな」
「ひっどい、もうあんなミスしません!」
「はは、ならいいけどな。よろしく頼むぞ」
「はーい」
固まり続けている美雪の隣で、私は返事をして自分の席へ向かう課長の背を見送る。
そういえば、課長も結構背が高い。今朝の夢の人と同じくらいじゃないだろうか。
「……あんた、よく田所課長とそんなフランクに会話できるわね」
「え?」
ようやく動き出した美雪に問われ、私は首を傾げる。
「だって、一緒に仕事することあるし。私一応開発部だから」
「それにしたって、あのイケメンで仕事ができるって話題の田所課長と、女子社員でそんな風に話するの、あんただけじゃないの?」
美雪のじっとりした視線に、私はさらに首を傾げた。
「それはあれでしょ、私が男みたいなもんだからじゃない?」
「男?」
「そう。女子社員として見られてないんだよ私。女の子相手にする時の気遣いとかされないし。だからフランクに見えるんだよ?」
「そうかなぁ」
「そうそう。ほら、そろそろデスクに行かないと」
未だ腑に落ちなさそうな美雪の肩を叩いて、私は自分のデスクに向かった。
二度あることは三度ある、とはよく言ったものだ。
「なんで! こんな! 変なところに! バグがあったのよ!!」
方向キーを押しつぶす勢いでおかしい個所を確認しながら、私は唇をかみしめる。
先日も二度ほど小さなバグを出したけれど、今回はまた別のバグを出してしまった。今日のうちに気が付いたし、そんなに大きなものではないからいいものの、このまま課長の元にあがっていたらと思うとぞっとする。
「瀬戸さん、大丈夫?」
「大丈夫でーす、あとは自分で片付けますから」
同じ課の皆さんの手を煩わせるほどのものでもない。もうしばらくすれば何とかなるはずだ。
オフィスから徐々に人が減っていくのをよそに、私はひたすらプログラムの修正を続けた。
「終わったー……」
作業が終わってプログラムを保存し、上司に作業完了のメールを出したころには、オフィスには私しかいなかった。そもそも今日はノー残業デーだったので、みんな帰るのが早かったのだけれど……
「それにしたって、みんな帰るの早すぎで……」
「やっと終わったか」
「ひいっ!?」
突然声をかけられ、思わず立ち上がりながら悲鳴を上げる。振り返ると、そこには背の高い男性。
「田所課長!」
「ったく、ノー残業デーだっつってんのにいつまで残ってるんだお前は」
呆れたように腕組みしながら、田所課長はため息を吐く。
「し、仕方ないじゃないですか! バグがあったん……あ、」
「またバグ出したのかお前」
「……す、すみません」
「お前、出来は悪くないのに最後の詰めが甘いよな……まあ、納品前にわかったからいいが、気をつけろよ」
「はい……」
私は反省してへこりと頭を下げると、もう一度プログラムを点検するべく席に座ろうとした。
しかし、それは田所課長の言葉によって遮られる。
「お前、合コンとか行くのか」
「はあ!?」
「吉沢美雪と話してたろ。今朝」
「あ、ああ……あれですか」
そういえば、聞かれてたんだった。嫌な話聞かれちゃったな。
私は仕方なく首を縦に振った。
「いろいろ思うところがありまして、私も彼氏の一人くらいいた方がよいのかな、ということになったんで……」
「やめとけ」
「え?」
「やめとけよ、合コンなんて」
私はその言葉にようやく、田所課長の目をまっすぐに見据えた。
私が見つめた目は、いつもの落ち着いたお兄さんの田所課長の目ではなかった。
何かが違う、もっと獰猛な、肉食獣みたいな、何かに飢えたような目だ。
「た、どころ課長……?」
「だいたい、お前は周りに目を向けなさすぎなんだよ」
私がその迫力に後ずさると、田所課長はその間を詰めるように一歩近づいてくる。
「それとも、自分が女だって自覚ないのか?」
「な、何をおっしゃってるのかわかりかねますが…っ…」
「本当に? ああ、そうだろうな。日ごろ俺がこんなに近づいてとやかく言ってたのに、何も気が付かなかった鈍い鈍い晴香だもんなあ?」
「何故名前呼び捨てですか!?」
後ずされば後ずさるほど、田所課長はどんどん近づいてくる。
やがて、私の背にひんやりとしたものが触れた。
は、柱にあたっちゃった……!
私がびくびくしながら田所課長を見上げると、彼は途端に不敵な笑みを浮かべた。
「もう逃げ場はないみたいだな、晴香」
「あ、あ、あの課長、これってひょっとして……私に恋愛的な意味で迫ってらっしゃいますか!?」
「やっと気づいたのか馬鹿」
「馬鹿じゃありません鈍いだけです!」
「似たようなもんだろ」
かつ、かつ、と靴音を立てて、田所課長は私に近寄ってくる。
そして、私は今朝のことを思い出した。
あの時の低い声、ひょっとして田所課長の声じゃなかったか?
「ま、さか」
私のつぶやきなどつゆ知らず、田所課長の手が顔の右横に突かれる。
すぐ近くに、真剣な目をした田所課長の端正な顔が迫っていた。ああ、会社の女子がきゃあきゃあ言うだけあるなあ、本当にかっこいい人なんだなあ、なんて、この期に及んでぼんやりと考えていると、左耳にかすかに吐息が触れた。
「もう、逃がさないからな。晴香」
……ああ、あの夢の男性はやっぱり田所課長だったんだ。
そしてあの夢は、正夢になった。
「田所、課長」
そりゃあ、嫌じゃないはずだよね。相手が田所課長だもん。
ファーストキスを奪われるのが田所課長なら、悪くないかも。
だって、私だって憧れていたから。
「晴香」
私の吐息を食むように、田所課長が唇を重ねる。
私はが拒むことなく受け入れると、彼の唇は角度を変え、何度も啄むようにキスを落としてきた。
「っ、ん」
くすぐったくて声を漏らすと、ぺろりと田所課長の舌が私の下唇を舐める。
「捕まえた、瀬戸晴香」
どうやら私は、このイケメンの肉食系課長に捕まってしまったようです。
背には壁、向かいには私より大きな人影。顔の右横に手を突かれ、じりじりと迫られる。
逆光のせいで、人影の顔が良く見えない。
これっていわゆる、壁ドン……!!
「もう、逃がさないからな。晴香」
私の耳元で、人影がハスキーな声でつぶやく。私の中にある乙女の部分がぞくりと震えた。
この声、どこかで聞いたことあるのに、思い出せない……
私このまま、この人にキスされちゃうの?
誰だかわからないのに、不安感も嫌悪感もない。私っていつからこんな女に?
ああ、いよいよ唇が重なる……!!
ピピピピピピピピ、というけたたましい電子音が響いて、私は飛び起きた。
「……はは」
夢かよ!!!
「晴香!」
勤め先のビルのエントランスで名前を呼ばれ、私は立ち止まる。
「美雪」
「おはよー、ってやだアンタ、ひっどい顔」
「おはよう……あんたは相変わらずいつでも臨戦態勢だねー……」
パステルピンクの異素材が組み合わさったかわいらしいワンピースにベージュのトレンチコートを合わせたかわいらしい女子、同期の美雪が隣に並ぶと、私はこの朝何度目かのため息を吐いた。
女の子らしい格好をした美雪に対し、私はといえば、黒いジャケットにストライプのシャツを合わせ、下はジャケットに合わせてくるぶし丈の黒いストレッチパンツ。女子の服装に規定のないわが社においてすこぶる地味な格好だ。
い、いや、私はこれでいいのだ。女の子じみた格好なんて似合わないし……そう、お客様が来た時にジャケット着てないと失礼になっちゃうかもしれないし!
「今度一緒に服選びに行こう? 晴香の場合、自分のセンスに自信ないって言ってたじゃん」
「はい、おっしゃる通りですお願いします……」
瀬戸晴香、26歳。22歳で就職してからずっと、IT系企業の開発部で働いている。
生まれてこの方、異性とお付き合いしたことがなく今後もきっとないであろう、本当に女なのか謎な女だ。
だんだん自分が本当に女でいいのか不安になってきた今日この頃。美雪をはじめ女子力の高い友人たちがいなければ、本当にからっからの煮干しみたいな女になっているだろう、と思っている。
「しかし何でそんなげっそりしてるのよ」
「エレベーター降りたら話すよ……」
私と美雪はエレベーターで10階へ向かい、社員証を入り口でかざしてオフィスに入る。
その間に今朝の夢の内容を美雪に話すと、美雪はぶっと遠慮なく噴き出した。
「あんた、それ欲求不満なんじゃないの?」
「うるっさいな自分でもそう思ってますよ!」
「でも、そんなげっそりする必要なくない? 彼氏いたことないんでしょ晴香。そういう夢の一つや二つ」
「なんかショックだったんだよね~……自分もやっぱり男の人にそういうことされたいって願望があったんだなーと思ってさ」
美雪みたいな女性らしい女の子がそういうことを求めるならまだわかるし、実際に起こりうることだろうからいいのだけど。私の場合、ちょっとやそっとのことじゃ今朝の夢のようなシチュエーションは発生しないし、私自身そういうのは無くていいって思ってたから、夢になって透けて出てきた深層心理にショックを受けているわけだ。
「よし! そんな晴香のために合コンもセッティングしてあげよう!」
「はあ? いいよそんなの」
「何言ってんのよ。きっとその夢は『そろそろ恋人くらい作れ』っていうお告げよ。自分の中の女に気が付いた今がいいタイミングじゃない。ね?」
「そ、そうかなあ」
「そうだよ! よっし、私燃えてきた! さっそくメンバー集めてセッティングを……」
「朝からうるさいぞお前ら」
突然割って入ってきた低い声に、私と美雪は固まった。
「た、田所課長……」
声をかけてきたのは、わが社のホープ、最年少課長の田所課長だ。まだ30代半ばなのに課長になり、開発部第一課をまとめている。きっちりしたスケジュール管理と良品質の納品物は評価が高く、客との折衝もお手の物で社内の信頼が厚い。
どうやらとんでもない会話をしているところを聞かれてしまったようだ。私はひっそりと肩をすくめる。
「元気なのはいいが、就業時間が近いんだからちゃんと準備しとけよ」
「は、はい」
「瀬戸、今日までのプログラム、ちゃんとできてるか」
「あ、はい。もちろんです」
「この前みたいにつまらないバグ出したら張り倒すからな」
「ひっどい、もうあんなミスしません!」
「はは、ならいいけどな。よろしく頼むぞ」
「はーい」
固まり続けている美雪の隣で、私は返事をして自分の席へ向かう課長の背を見送る。
そういえば、課長も結構背が高い。今朝の夢の人と同じくらいじゃないだろうか。
「……あんた、よく田所課長とそんなフランクに会話できるわね」
「え?」
ようやく動き出した美雪に問われ、私は首を傾げる。
「だって、一緒に仕事することあるし。私一応開発部だから」
「それにしたって、あのイケメンで仕事ができるって話題の田所課長と、女子社員でそんな風に話するの、あんただけじゃないの?」
美雪のじっとりした視線に、私はさらに首を傾げた。
「それはあれでしょ、私が男みたいなもんだからじゃない?」
「男?」
「そう。女子社員として見られてないんだよ私。女の子相手にする時の気遣いとかされないし。だからフランクに見えるんだよ?」
「そうかなぁ」
「そうそう。ほら、そろそろデスクに行かないと」
未だ腑に落ちなさそうな美雪の肩を叩いて、私は自分のデスクに向かった。
二度あることは三度ある、とはよく言ったものだ。
「なんで! こんな! 変なところに! バグがあったのよ!!」
方向キーを押しつぶす勢いでおかしい個所を確認しながら、私は唇をかみしめる。
先日も二度ほど小さなバグを出したけれど、今回はまた別のバグを出してしまった。今日のうちに気が付いたし、そんなに大きなものではないからいいものの、このまま課長の元にあがっていたらと思うとぞっとする。
「瀬戸さん、大丈夫?」
「大丈夫でーす、あとは自分で片付けますから」
同じ課の皆さんの手を煩わせるほどのものでもない。もうしばらくすれば何とかなるはずだ。
オフィスから徐々に人が減っていくのをよそに、私はひたすらプログラムの修正を続けた。
「終わったー……」
作業が終わってプログラムを保存し、上司に作業完了のメールを出したころには、オフィスには私しかいなかった。そもそも今日はノー残業デーだったので、みんな帰るのが早かったのだけれど……
「それにしたって、みんな帰るの早すぎで……」
「やっと終わったか」
「ひいっ!?」
突然声をかけられ、思わず立ち上がりながら悲鳴を上げる。振り返ると、そこには背の高い男性。
「田所課長!」
「ったく、ノー残業デーだっつってんのにいつまで残ってるんだお前は」
呆れたように腕組みしながら、田所課長はため息を吐く。
「し、仕方ないじゃないですか! バグがあったん……あ、」
「またバグ出したのかお前」
「……す、すみません」
「お前、出来は悪くないのに最後の詰めが甘いよな……まあ、納品前にわかったからいいが、気をつけろよ」
「はい……」
私は反省してへこりと頭を下げると、もう一度プログラムを点検するべく席に座ろうとした。
しかし、それは田所課長の言葉によって遮られる。
「お前、合コンとか行くのか」
「はあ!?」
「吉沢美雪と話してたろ。今朝」
「あ、ああ……あれですか」
そういえば、聞かれてたんだった。嫌な話聞かれちゃったな。
私は仕方なく首を縦に振った。
「いろいろ思うところがありまして、私も彼氏の一人くらいいた方がよいのかな、ということになったんで……」
「やめとけ」
「え?」
「やめとけよ、合コンなんて」
私はその言葉にようやく、田所課長の目をまっすぐに見据えた。
私が見つめた目は、いつもの落ち着いたお兄さんの田所課長の目ではなかった。
何かが違う、もっと獰猛な、肉食獣みたいな、何かに飢えたような目だ。
「た、どころ課長……?」
「だいたい、お前は周りに目を向けなさすぎなんだよ」
私がその迫力に後ずさると、田所課長はその間を詰めるように一歩近づいてくる。
「それとも、自分が女だって自覚ないのか?」
「な、何をおっしゃってるのかわかりかねますが…っ…」
「本当に? ああ、そうだろうな。日ごろ俺がこんなに近づいてとやかく言ってたのに、何も気が付かなかった鈍い鈍い晴香だもんなあ?」
「何故名前呼び捨てですか!?」
後ずされば後ずさるほど、田所課長はどんどん近づいてくる。
やがて、私の背にひんやりとしたものが触れた。
は、柱にあたっちゃった……!
私がびくびくしながら田所課長を見上げると、彼は途端に不敵な笑みを浮かべた。
「もう逃げ場はないみたいだな、晴香」
「あ、あ、あの課長、これってひょっとして……私に恋愛的な意味で迫ってらっしゃいますか!?」
「やっと気づいたのか馬鹿」
「馬鹿じゃありません鈍いだけです!」
「似たようなもんだろ」
かつ、かつ、と靴音を立てて、田所課長は私に近寄ってくる。
そして、私は今朝のことを思い出した。
あの時の低い声、ひょっとして田所課長の声じゃなかったか?
「ま、さか」
私のつぶやきなどつゆ知らず、田所課長の手が顔の右横に突かれる。
すぐ近くに、真剣な目をした田所課長の端正な顔が迫っていた。ああ、会社の女子がきゃあきゃあ言うだけあるなあ、本当にかっこいい人なんだなあ、なんて、この期に及んでぼんやりと考えていると、左耳にかすかに吐息が触れた。
「もう、逃がさないからな。晴香」
……ああ、あの夢の男性はやっぱり田所課長だったんだ。
そしてあの夢は、正夢になった。
「田所、課長」
そりゃあ、嫌じゃないはずだよね。相手が田所課長だもん。
ファーストキスを奪われるのが田所課長なら、悪くないかも。
だって、私だって憧れていたから。
「晴香」
私の吐息を食むように、田所課長が唇を重ねる。
私はが拒むことなく受け入れると、彼の唇は角度を変え、何度も啄むようにキスを落としてきた。
「っ、ん」
くすぐったくて声を漏らすと、ぺろりと田所課長の舌が私の下唇を舐める。
「捕まえた、瀬戸晴香」
どうやら私は、このイケメンの肉食系課長に捕まってしまったようです。