初恋lovers


淀駅でほとんどの乗客が降りてしまうと、車内は嘘みたいに静まり返った。
だが、空いた席に座ることもなく、安藤さんは私の前に立つ。

祇園四条駅まではもう少し。
それまで、このままで。

心の奥底で密かに願いながら、そっと彼に話しかけた。
「あの……」

うっすらと額に汗の滲む安藤さんが、私を見つめる。

「菊花賞ってなんですか?」
ああ、と彼の唇が動いた。

「京都競馬場の4歳馬による重賞レースや。3000メートルの長距離を駆け抜けていくんや。競馬好きにとってはお祭りやけぇ、レースの日は混み合うの忘れとって、すまんかったの」

指示語以外の言葉が、すらすらと彼の口から流れ出た。
関西弁とは違う、聞き慣れないイントネーションで。

「けぇ?」
思わず私は、復唱した。

その途端、彼の顔にはしまったと焦りが浮かび、私から視線を逸らした。
彫りの深い横顔が微かに赤らんでいる。

「大阪に来てから7年たつけど、未だに方言が抜けきらん。職場でもバカにされるけ、しゃべらんようにしとったけど」
いけんかったと、寂しそうに笑った。

その横顔を見ていられなくて、たまらず彼の名を呼んだ。
静かな車内に響き渡った私の声に、彼がこちらを振り返る。

「安藤さん、私は他の人とは違います」

「他の人って」

「コーヒーは飲めませんけど、安藤さんのことバカになんてしません」

満員電車の中で守ってくれたあなたのこと。
大きな体で、話し方を気にして無口な振りをしていたこと。
私の気持ちは、こんなにもあなたに触れたがっている。

このまま、あと一言が伝えられたらどんなにいいだろう。
でも、心とは正反対の言葉が唇からは紡がれていく。

「このお見合い、安藤さんが嫌なら断ってください」
素直になれない私の、精一杯の告白。

安藤さんは目を細め、ゆっくりと顔を近付けてきた。

「美沙さん」

耳元で名を呼ばれ、心臓が早鐘のように鳴る。

「取引先でいつも真面目な事務員さんが気になって、お見合いを頼んだのは俺です。嫌な訳ないですけぇ」

囁かれた彼の言葉に、顔が一気に紅潮していく。
金魚のようにぱくぱくと口が動くばかりで、声一つ出ない。

固まる私をそのままに、安藤さんは何事もなかったかのように姿勢を戻した。

その平静さがなんだか憎らしい。

真っ赤になりながらも悔しくて、たまらず私は大胆になる。

「孝さん……」
揺れる電車のせいにして、彼の胸にそっと頬をよせた。


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