だから、キスして
会社帰りに外で待ち合わせて、私は本郷さんと一緒に食事に出かけた。いつもは夜遅くまで残業している本郷さんが、今日は私と出かけるためにいつもよりずいぶん早く会社を出てくれた。
それだけでものすごく幸せな気分になる。文句を言ってやろうと思っていたこともすっかりどうでもよくなっていた。
本郷さんが連れていってくれた創作イタリアンのレストランは、落ち着いた大人の雰囲気で私の好きなイタリアワインの種類も豊富だった。
彼はディナーコースを頼もうと言ったけれど、ちょっとボリュームがありすぎて食べきれそうにない。残すともったいないから、単品でいくつか頼もうと提案した。
会社の話や彼の好きなサッカーの話をしながら食事を終えて、赤ワインを飲んでいるとき、本郷さんが私を見つめながらしみじみと言った。
「おまえって、小食だよなぁ」
そんなこと言われたの初めてで私は首を傾げる。
「そんなことないですよ。普通です。誰を基準にしてるんですか」
基準。
自分で言ってふと気づく。
海棠さんはものすごくよく食べる。
一緒に食事に行っても、私の残した分までもったいないからって食べてくれる。ケーキバイキングに行ったときは、ひとりで十個もぺろりと平らげていた。
それに気づいた途端、昼間のイライラが頭をもたげてきた。気を紛らわせようとすればするほど、心がとらわれて、不安に胸が締め付けられる。
たぶん私、今すごくイヤな顔してる。それを見られたくなくて俯いた。
どうしようもなくイヤな感情がこみ上げてきて、言わないようにしようとしていたことが口をついて出る。
「海棠さんと比べないでください」
本郷さんは一瞬絶句した後、慌てて取り繕った。
「いや、海棠と比べたわけじゃないんだ。あいつは大食いだから基準になんかならないことは知ってる」
知ってるんだ。
もう彼がなにを言っても勘ぐってしまう自分がたまらなくイヤだ。
せっかく久しぶりのデートなのに、こんな雰囲気で終わらせるのもイヤだ。 私はあえてにこやかに切り返した。
「ですよね。海棠さんってハンパなく食べますもんね」
「そうだろ?」
ぎこちなく交わす互いの笑顔が白々しい。
ここは本格的なケンカになる前に退散した方が店にも迷惑にならないだろう。
私は一気にグラスを空けて席を立った。呆気にとられたように見つめる本郷さんを見下ろしながら、笑顔で告げる。
「本郷さん、今日は食事に誘ってくれてありがとうございました。私、ちょっと酔ったみたいなので、そろそろ失礼します」
「あぁ。送るよ」
背を向けてさっさと立ち去る私を、本郷さんは慌てて追ってきた。