本当は怖い愛とロマンス
会場につくと、俺は平謝りしながらすでにリハーサルを始めていたミュージシャン達のところへ向かった。
そこには客席で腕を組みながら眉間にシワを寄せて踏ん反り返って座っている谷垣がいた。
谷垣に直接会うのは、ツアーが始まった初日以来始めてだった。

「すみません。遅れてしまって。」

「謝ってる暇なんかないんだよ!時間おしてんだから、ささっとリハーサル始めろ!」

すごい剣幕で立ち上がって俺を怒鳴りつけると、足を組んでさっきと同じ様子で座った。

俺の後ろからはサポートミュージシャンの愚痴にも似た声が耳に聞こえてくる。

「谷垣さん、なんで今日あんな機嫌悪いんですか?」

「なんでも、家出してた娘が容体が未だに悪いらしくて入院してるからピリピリしてるらしいですよ。毎日、病院につききっりみたいだし。リハーサルとっとと終わらせて、早く現場抜けたいんでしょ?」

俺はその話を聴きながら、あの日病院でベットの上で横たわる彼女の姿を思い浮かべていた。

そして、西岡の話も。

もう気にする必要なんてない。
俺には関係ないんだ。

気持ちを入れ直す為にそう言い聞かせた後、顔を両手で何度か叩くと、俺は後ろのミュージシャンに合図を送りリハーサルを開始した。
マイクを握りながら、何度か曲にストップをかける谷垣は、何か考え込んだ様子で真剣にリハーサルを見ている様子はなかった。
ピリピリした空気のまま、一度休憩を入れる事になり、俺は外でタバコを吸っていた。
するとイラだだったように、電話で誰かと口論をしながらタバコを吸う谷垣の姿が目に入る。

「その話は何度も話しただろ!とりあえず仕事だから、あとは終わってから話そう。」

そう言って、電話を切ると、大きなため息をついて頭を抱え込んでいた。

「あんたのそんな余裕のない顔を見るの初めてだな。」

谷垣は俺の存在に気付いてなかったようで、俺だと気付いた瞬間、吸っていたタバコを地面に放り投げるとすごい剣幕で胸倉を掴んできた。

「なぜ、娘に近づいた?中途半端に離れるくらいなら、なんであの子に優しくした?だから、俺は放っておけと言ったんだ!」

俺はその質問に唇を噛み締めて何も答えなかった。
答えなかったというよりは、答えられなかったのだ。
彼女の真実を少なからず知った俺は、はっきりと自信のある返答を谷垣には言えなかった。

「お前を攻めたって何も変わりゃしないのは、俺だってわかってる。」

そう言うと、谷垣は掴んでいた手を静かに緩めた。
そして、タバコに火をつけながら言葉を続けた。

「あの子の事になるとつい熱くなってしまうのが俺の悪い癖だ…すまない。」

そういって、俺に軽く頭を下げた谷垣が何故かとても寂しそうに見えた。
よく考えてみれば、谷垣の弱音や悩みなんて長い付き合いの間聞いた事もない。

「谷垣さん、すみませんでした。俺…。」

つい口からでた言葉は、谷垣への謝罪だった。
どうにも煮え切らない気持ちを表現するのは言葉では難しすぎたからなのかもしれない。
ただ、自然に谷垣に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
それは、何よりも大切なものを俺が汚してしまったような感覚とでもいったらいいのだろうか。
そして、俺は自分の失った大切な人の幻を彼女に見ていた。
失ったものは二度と帰ってくる事はないと何よりも知っていたのは俺自身だったはずだったのに。
俺が再び恋をしたのは、谷垣の娘の恵里奈ではなく、叶うはずがない失った人に似た渚という女だったんだ。

谷垣は、慎重に言葉を選びながら下を向いて言葉をつらませている俺の姿を見て、少し笑みを浮かべながら言った。

「お前、やっと夢から醒めたんだな?あの時、お前に言った意味が今なら解るってか?」

そう言った後、谷垣は狂った様に声をあげて、大笑いした。

「お前も結局、夢に恋したただの男だって事か。」

俺の耳には、谷垣のその一言と笑い声だけが鳴り響いていた。

「全ては幻だ。」

谷垣は俺に最後にそう言って、全てを忘れろと伝えた。

そして、現実は愚かな真実と共に引き戻され、全てが消えて無くなる。

何もない日常と色のない毎日。

彼女に恋をした記憶さえ、今の俺には昔に思えた。

霧雨の様に曇って見えなかった世界が、晴れ渡った瞬間何もなく、見えなかったものが浮き彫りにされた。

俺は、幻を見たのだ。

恋という幻を。

















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