それが愛ならかまわない

 小野さんの声で我に返る。
 ふわりと漂う甘いバニラとバターの香り。背後の壁の向こうから感じる微かなオーブンの熱。いつの間にかバイト先であるケーキ屋のカウンターの中にいた。
 時計を見ると既にシフトの入り時間から三十分以上経過している。制服もきちんと身に着けているけれど、正直あの後どうやってここまで辿り着いたのか記憶にないし、仕事をこなした感覚もない。


「最近毎日みたいに入ってもらってるし疲れてるんじゃないの?」


「そんな事ないですよー、大丈夫です」


 慌てて手と首を振る。
 仕事中に考え事でぼうっとするなんて私らしくない。けれど小野さんの態度を見る限り、幸いにもそのせいで何か失敗を犯した様子はなさそうだった。


「ならいいけど……今日かっちりした格好してたね。スーツ着てる莉子ちゃんなんて初めて見たよ。どこか正社員採用の面接?」


 その発言にぎょっとする。
 どうやら着替える事を失念してそのままここまで来てしまったらしい。ゆるく就職活動中のフリーターという設定上、小野さんはオフィス仕様のジャケット姿を面接の為のリクルートスタイルと思った様だった。
 何だか今日は人に何か言われて驚かされてばかりだ。自分でも思っている以上に疲れているのかもしれない。注意力が散漫になっている。


「ええまあ……そんな所です。でも色々厳しいですね」


 代わりの言い訳も思いつかないのであえて否定せず勘違いはそのままにしておく。

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