アイス・ミント・ブルーな恋[短編集]
懐かしいな、と、彼は静かに笑った。
彼の瞼の裏には、世界が見えていた頃の思い出が、沢山詰まってる。
もう何年も前の話なのに、あのブサイクなくまが、彼の中にまだ残っていたことがとても嬉しい。
彼は、コップを持っている私の指をなぞった。
「指短くなった?」
「そんなわけあるかいっ、現役音大生になんてことを…」
「はは、ヒカリは絵も上手いしフルートも上手いし、自慢の妹だよ」
「なんか弾こうか?」
「お隣さんに文句言われないのか?」
「ここは音大生の人しか住んでないアパートで、そういうのオッケーなんだよ! 完全防音なの」
「じゃあ音は漏れないんだな」
ここの会話や音は、この四角い世界だけのもの。
住人は私とあなただけ。
今この世界には、2人だけの音しか存在しないの。
「ヒカリ、彼氏つくれよ」
「つくれるならとっくにつくってるわ!」
「ヒカリ美術の才能もあるから作れるんじゃないの? なんか粘土とかで」
「そんな妹いていいなら別に作ってもいいけど」
「作ったら金輪際近寄らないわ」
「殺意」
「はは、嘘だよ」
「かんちゃんの嘘は、しゃれにならない」
「俺はしゃれしか言わないよ」
「どうして彼氏つくれって言うの?」
「……わかるだろ」
「どうして近寄らないとか言うの?」
「……」
「本気で言ってることを、冗談に紛れ込ませるのやめてよ」
そう言うと、彼は困ったように笑った。
でも、笑えてなかった。彼は、黒い髪をくしゃっとして、それから両手で顔を覆って俯いた。
「怖いんだよ…、俺はヒカリに、もっと広い世界を見て欲しい」
「……」
「俺が知ってるヒカリの笑顔は、中学生の時で止まってる。でもその笑顔すら最近うろ覚えになってきた。本当はくまのイラストだって、うっすらとしか思い出せない。ヒカリは声を押し殺して泣く癖がある。もしヒカリに何かあった時、俺はヒカリが泣いてることにさえ気づいてあげられない。それがどんなに怖いことか、分かるか、ヒカリ……」
最後の方の言葉は、擦り切れて上手く聞き取れなかった。
胸が千切れそう、とは、こういう状態を言うのか。
ーー私は、彼の言う広い世界っていうのが、あまりピンとこないよ。
たくさんの恋をすること?
たくさんの映画を観ること?
たくさんの海外旅行をすること?
新しい洋服を買うこと?
新しいコップを買うこと?
人は、ずっと同じ場所にいてはいけない?
色んな人に出会うことが、素晴らしいこと?
あなたは、自分のことを置いていけと言ってるつもりだろうけど、それは違うよ。
広い世界に行けという言葉は、
もうあなたと2人でつくるこの小さな世界で生きていくと決めた私には、
私のことを置いていくと、言ったも同然だよ。
「……ねえ、かんちゃん、私今どんな顔してるか、分かる?」
「……分かる。泣いてる」
「分かるじゃん。見えなくても分かるじゃんっ、なんで私を追い出そうとするの…?」
「追い出すって……そんな言い方してないだろ…」