手の届く距離
1cm
北村祥子:ご了承ください
客で賑わう店内に怒鳴り声が響く。
「何してくれんだよ!」
「申し訳ありません」
先週入ったばかりの新人バイトの女子がすぐに謝罪の声を上げる。
「申し訳ないで済まないでしょう、ああ!ぼおっとしてるから服に濡れちゃったよ」
ズボンを摘んで客の一人が立ち上がる。
ファミリー向けのカジュアルイタリアンの店でも、たまにトラブルを起こすお客さんがいる。
新人バイトはひたすらお客さんに頭を下げている。
ちょっとドン臭いところがある印象はあったが、今度は何をやらかしたのか。
「副店長呼んで、8番テーブルトラブルっぽい」
私はキッチンに叫んで、小さく震えている新人の元に駆けつける。
少しでも安心するように新人の腕に手を添える。
8番テーブルのお客さんは強面の、体格のいい男性3人とやたら派手な印象の女性1人。
料理は無事のようだが、テーブルの上はお冷がこぼれて水浸し。
「失礼いたします。いかがされました」
「おう、姉ちゃん。この惨状みて、いかがされましたはどうなの?この子があーって水こぼしちゃったんだよ」
客の一人が残っていたコップの水を料理に掛けてしまう。
ちらりと他の席に目を向けるが、お客さんは満席で移動する場所もない。
「申し訳ありません、すぐテーブルを片付けて新しいお料理をご用意いたします」
申し訳ありませんともう一度頭を下げてから、新人と一緒にキッチンに戻ろうとしたのを、4人組の一人が手を伸ばして止める。
「そっちの子?ちょっと置いていってよ。ちゃんと謝ってもらおうか」
ちゃんと謝ってたじゃない、と出掛かった言葉を飲み込む。
「彼女にも手伝わせますので、一度下がらせていただきます。申し訳ありません」
新人の背中を押すように、一緒に頭を下げてキッチンに向かおうとしたら、手と袖が濡れる感覚に襲われる。
足を止めて確認すると、客の男がコップをこちらに向けて立っていた。
新人の背中に向けて水を掛けてきたらしい。
「たいしたこと言ってねえだろ。そいつ置いてけよ」
商売柄、店側の分が悪いとは言え、水を掛けるなんてどんな神経してんだ!と叩き付けたい言葉も歯を食いしばって堪える。
水を掛けてくるような客だ。
新人を置いていったら何をされるかわからない。
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