手の届く距離
15cm
北村祥子:夢うつつの確認
店の裏口から入り、いつもの習慣で一応事務所を覗く。
「お疲れ様です」
無人だったが、一応挨拶だけして、さっさとスタッフルームに向かう。
もう、事務所で時間を割くことはない。
「あ、祥子さん。お疲れ様です。大丈夫っすか?」
心構えをする前に遭遇した川原がいつもと変わりなく挨拶してくる。
真っ直ぐな笑顔に毒気を抜かれて、しどろもどろに頷きながら、挨拶と昨日の感謝と謝罪の言葉を述べる。
川原と並んで座っていたかなっぺが不思議そうな顔をして正面に立つ。
「祥子さん、調子悪いんですか?」
かなっぺは心配そうに額に手を当ててくれるが、昨日呑みすぎたことを伝えて苦笑いする。
「なんだ、川原君と飲んでたなら、私も誘ってくださいよ!次は絶対ですよ!」
かなっぺの勘違いを訂正せず曖昧に頷く。
分けてあるコピー用紙の山から1枚ずつ抜き取って1部のセットにする作業を続けていた川原が、隣に戻ってきたかなっぺ越しに、心配そうに見つめてくる。
大丈夫であることをアピールするつもりで、無駄に何度も頷いてみせロッカーに向かう。
さっさと一人しか入れない着替え用スペースに引っ込んで制服に着替える。
昨日のことがあれば川原に変化が見られると思っていたので、動揺のない川原を見ていたら、やっぱり夢だったのではないかと思う。
たぶん、そうだ。
晴香さんが知らないのだし、夢の中で広瀬さんの思い出が蘇ったのかもしれない。
うん、きっとそうだ。
そう思えば、少し気が楽になった。
カーテン越しのかなっぺと川原の会話で中国語の先生の話をしていることがわかる。
去年、授業を受けたばかりだ。
過去問も、確か残してある。
うん、これでいつも通りの顔だ。
「ちょっと4番行ってくる」
カーテンを開ける直前にかなっぺの声とともに椅子が引かれる音がする。
4番というのは、トイレに行く、という店内での隠語だ。
「はい、お願いします」
律儀に返事をする川原の存在が残る。
昨日の今日でいきなり二人きりになるのは、ちょっと緊張してしまう。
今まで、一度も意識しなかった川原と二人きりでいることを意識してしまう自分が信じられない。
きっかけは一瞬。
しかも、もしかしたらただの夢だと頭を振る。
「祥子さん、大丈夫っすか?」
「うん、うん。大丈夫」
いつまでもカーテンの中に隠れているわけにもいかず、観念して外に出ると、川原の視線を浴びる。
「祥子さん、無理しないで座ってください。あの、もしホール大変だったら、俺あんまりホールに出ることないんで、修行に行きますよ」