手の届く距離
何度も二人に念を押され、他のスタッフにも私の調子が悪いことを公言され、フォロー体制ばっちりでディナータイムに入る。
言うほど体調が悪くないだけに、申し訳ないが、レジをメインに比較的動きの少ないところを割り振られた。
仕事に支障もなく、一日が終わると、口々にスタッフからいろんな二日酔い対策を聞かされて帰り支度をする。
「俺らとくっちゃべってないで、祥子ちゃんはもう帰りな」
本日のリーダーに促されて、いろいろ配慮された手前素直に店を後にする。
「祥子さん、一緒に帰ります!」
少し遅れて川原が裏口から飛び出てくる。
「心配しすぎ」
「心配しますよ、頑張りすぎるんっすから」
必死に追いかけてきてくれる姿を労わろうと、手を上げかけたが、頭を撫でられるのは嫌だと言った川原の言葉を思い出して、腕を戻す。
「どうぞ」
それを見ていた川原が、身を屈めて頭を差し出した。
「イヤだったんじゃないの?」
「祥子さんのしたいことなら何でもしますよ」
川原は身を屈めたまま、ちらりと視線を上げて目を細める。
「言ったな」
目の前に落ちてきた頭に手を乗せて、わしゃわしゃとかき混ぜる。
満足する前に川原が頭を上げてしまって、手が離れる。
「あ、すんません。ワックスついたんじゃないっすか。今日セットするのに使ったんっすけど、なんかいっぱい取りすぎちゃって」
確かに手に多少べたついた感触が残る。
両手をすり合わせて適当に落とした気分にしておく。
「ワックスか、時々固くてベタベタしない時もあるよね」
「たぶん、ハードスプレーつけたときは固いかもしれないっす。これ使ってください」
いつぞやかは出てこなかったタオル地のハンカチを引っ張り出して、手に乗せてくれたかと思いきや、下から手を添えて、手の平を拭いてくれる。
こんなに献身的だっただろうか。
手を引くのも失礼かと思ってされるがまま、手を預ける。
手が触れても、広瀬さんのような緊張感けれど、嫌な気分もない。
あるのはくすぐったい、暖かな気持ち。
沈黙が落ちるのに耐えられず、昨日の話を持ちかける。
「昨日、晴香さんに呼び出されたんでしょ。ごめんね」
「困った時はお互い様です。それに、ちょっと役得でした」
川原は視線は手元に落としたまま、笑みを浮かべる。
「役得?ご主人様の命令でいやいやじゃないの?」
「何っすかご主人様って」
川原は噴出しながら、手を拭くのをやめ、自分のカバンにタオルハンカチを戻す。
「晴香さんが、ご主人だと思ってたんだけど、そうじゃないって言うから」
「晴香さんがご主人なんて絶対勘弁っす。俺、メイド、ってか男だと執事?なったんっすか?ちゃんと自分の意思で動いてますよ」
柄でもない、と原付の鍵を出してロックをはずしていく。
執事どころか、人間でもなく、犬だよということは、敢えて飲み込んでおいた。