手の届く距離

キッチンにオーダーが届くとこの言葉を言う。

「ヴォレンティエリ!」

キッチンスタッフとともに、俺、川原健太も一緒に声を出す。

イタリア語で、「喜んで!」という意味らしい。

残念ながらイタリア語マスターにはかなり遠い道のりだが、意味不明のカタカナを口にしていた初日とは、ずいぶん変わった。

呪文が飛び交っているとしか思えなかった言葉も、4月の後半に入った今は、実際の訳を知っていなくても、何をすればいいか、先輩に聞かなくてもわかるようになってきた。

「返事は板についてきたね、川原。ホール北村、休憩入りまーす」

腰から下だけのエプロンをはずしながら祥子先輩がキッチンに入ってくる。

ホールではくるくるとよく動き、よく笑い、楽しそうに仕事をしている。

部活の時と一緒だ。

いつでもどんなことも全力で楽しそうにしている。

忙しさのピークが過ぎたところで、キッチンもホールスタッフも一人ずつ順番に休憩に入るようにしている。

遅い晩御飯を摂ったり、食事よりまずがタバコという人もいる。

「川原、採点してあげるから、ペンネアラビアータ、ペルファボーレ(お願いします)」

どう転んでも本当に先輩だが、やたら偉そうに先輩風を吹かせて注文をしてくる。

女性としては小さくはないと思うが、俺と比べると頭一つ小さい先輩の仁王立ちもたいした迫力はない。

「ヴォレンティエリ」

本当の注文が入った時のように声を張り上げず、小さな声で例の呪文を返すとバシっと軽くない勢いの手のひらを肩に受ける。

「心がこもってない」

「こめてますって」

高校の時の名残なのか、俺に対してだけ、かなり手荒な対応をしてくる気がしてならない。

バイト初日に、好きな先輩に会えた驚きと嬉しさは大きかったが、全く意識されていない態度は高校の頃と変わらず、少しだけ悲しくなる。

彼女がいる身で、そんなことを思う資格もないけれど。

大体一通りの料理も教えてもらったが、一番多くこなしている仕事はせっせと皿洗い。

大量の洗い物の大半は自動食洗機が動いてくれるが、落ちきらない汚れは手作業。

肩の痛みへの応酬として、濡れたままの手を振って祥子先輩に水滴を飛ばしてやる。

祥子先輩もそれに乗じて水道に手を伸ばしたところで注意されてしまった。

「二人とも遊ばない」

「ごめんなさい」

「すみません」

祥子さんと同時に謝罪の言葉を述べて顔を合わせる。

祥子さんはペロリと舌を見せて、よろしくとだけ残して先にスタッフルームへ向かってしまう。

「キッチンも休憩回そう。川原、祥子ちゃんの注文作って休憩入ってくれ」

休憩の順番や時間はその日のキッチンリーダーが采配を振る。

すぐに返事をして、祥子さんのオーダーに取り掛かる。

ついでに、自分の分もアラビアータを作るべく、覚えた料理の2.5人分量を手早く作る。

賄い付きとは言うものの、基本、セルフサービス。

自分の分は大盛り、プラス目玉焼きを乗っけるアレンジ。

以前、勝手にオリジナルパフェを作って食べていた先輩スタッフには驚いたが、自分で作る分には店にあるものを好きなだけ使えるし、何でもありのようだ。

残るキッチンスタッフに声を掛けてから、二人分のアラビアータを持ってスタッフルームに向かった。
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