手の届く距離
違ったら恥ずかしいが、飛び跳ねて手を振ると携帯越しに「あ、僕も北村君、見つけた」なんて声が、甘い囁きのように聞こえてドキドキしてしまう。
人影は視線を定めて真っ直ぐこちらに向かってくる。
飛び跳ねるのも手を振るのも止めて、携帯に両手を添える。
直接の声は張り上げないと聞こえないため、遠くの姿を見つめながら電話は越しに話す。
「広瀬さん、今日はスーツなんですね」
『うん、ごめんね。本社から直接来ることになっちゃって』
広瀬さんも、電話を切らずに足を進めてくれる。
向けられる視線、穏やかなトーンの声、ゆったりとした時間を独り占めしている気分に口元が緩むのを止められない。
広瀬さんのスーツはグレーのピンストライプ。
細身のシルエットがおしゃれ。
「いえ、忙しい中来てもらえて嬉しいです。それに、なんか新鮮」
『新鮮?確かに、店にスーツでは行かないからね。最近本社勤務が多くて、窮屈なんだ。僕なんかより、北村君のスカート姿も新鮮で素敵だよ』
さらりと告げられた褒め言葉にテンションが上がる。
一方で、ズボンばかりはいていた自分のことを気付かれていた。
「バイトには自転車で行くのでついズボンを選んじゃって」
気合を入れて最大女子力の今なら、その隣を歩けるだろうかと、自分の姿を見下ろす。
着慣れないフレアスカートは、スーツ姿の隣に立つには少し甘すぎるかもしれない。
「服と化粧で、女の人は別人になるからね」
直接の声が届く距離になり、お互い通話終了ボタンを押す。
服装で背伸びした分、少しでも近づけただろうか。
目に映して欲しい。
女性として意識して欲しい。
「今日は特におしゃれしてきたんです。広瀬さんの好みには沿いますか?」
スカートの裾を少し摘んでみる。
「なるほど、それで美人度が上がってるわけだ。沿うもなにも、もったいないくらいじゃないかい」
せめて、好みでもわかれば、と思った発言も、さらりとかわされてしまう。
お世辞だろうけれど褒め言葉には違いなく、嬉しさが先行する。
しかし、広瀬さんのにこやかな表情は動かないのにも気付いてしまう。
照れや熱を目の奥に感じられない。
表面上の社交辞令だ。
だから。
近づく勇気と、こちらを向かせる魅力が欲しい。
できるだけ抑えた、大人っぽい笑顔を意識して作る。
「広瀬さんにそう言ってもらえたら、頑張った甲斐があります」
「そんな大層なことは言ってないよ。出迎えてもらっちゃってごめんね。幹事もありがとう。順調かい?」
幹事への労いをかけてくれたのは今のところ広瀬さんが最初だ。
気配りに感激しながら頷く。