手の届く距離
「待ち伏せされて、二人で抜けようと、言われました」

晴香にだけ聞こえる声量でぼそぼそ言う。

当日の熱を思い出して、腕を解いて指先で額に触れる。

話を続ける前に、晴香さんが勢いよく声を挟んできた。

「どっちに。後輩君?広瀬さん?」

「どっち?!」

いつの間にか増えている選択肢に驚き、叩き返すような鸚鵡返しをしてしまう。

「何で、どこから川原登場?」

「だってぇ、血相変えてなっちゃん引っ張ってったのは後輩君でしょう」

「川原は、たまたま私を見つけてくれただけですよ。だいたい、川原には彼女いるし。晴香さん、自分で確認してたじゃないですか」

晴香の勘違いを聞いて脱力する。

無駄に力を入れて話してしまった分、またソファーに沈む。

そう言えば、川原はなんで廊下の壁に頭をぶつけていたのだろう。

もちろんわざとではないだろう。

ただ、一つ一つ行動が大きすぎるのだ。

折角恵まれた体格なのに真っ直ぐすぎてフェイントがちっとも出来ない万年補欠。

応援に力を入れすぎたときみたいに、かすれた声も情けなくて笑えた。

思い出してくすりと笑いがこみ上げる。

「ふーん、見込み違いかぁ。なんかお姉さん的には残念なんだけどぉ。広瀬さんなら、両思い万歳ってことじゃない。報告ぅ!」

晴香はつまらなさそう口を尖らせながらフォークでタルトをつつきまわし始める。

むしろ川原だったらよかったような物言いはひっかかる。

広瀬さんが好きであることは、バイトでは唯一晴香にしか公言していないのに。

パスを出したのに、味方が誰も反応できなかった時のような空虚感を覚える。

たっぷり入れたミルクがすっかり混ざりきるまでコーヒーをしつこくかき混ぜて、狭いコップの中を見つめる。

少しだけ浮上した気持ちも渦に飲み込まれて沈んでいく。

「気持ちがついていかなくて、ちょっと怖くなっちゃった、が一番近いかな」

逃げ道を塞ぐように壁際に追い込まれ、強引に迫られるのは想定外だった。

逃げる術はあったけれど、信頼と好意がそれを阻んだ。

「それってただの贅沢じゃない、もう大人なんだしぃ。初めてのお付き合いするってわけじゃないでしょ?あの日にどこまでされたの?広瀬さんのテクは?泣いてたのはそのせい?」

「ちょっと一遍に言わないで」

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