手の届く距離
誰ともなく挨拶をしながら、スタッフルームの扉を開ける。

入ってすぐ右手の壁沿いに並ぶタイムカードのホルダーから自分の名前が書かれたカードを引き出す。

専用の機械に入れると、時間が印字されてカードが吐き出されるものだ。

「お疲れぇ、祥ちゃん」

私に気づいた高島晴香がアイラインを引く慎重な手を止めず、舌足らずな甘い声だけを向けてくる。

静かなスタッフルームを見渡すと、晴香さん以外はまだ誰も来ていないようだ。

晴香さんに挨拶をしてから、自分のロッカーに荷物を入れ、代わりに制服のコックシャツと黒ズボンを取り出す。

着替えはスタッフルームの一角、カーテン一枚で仕切られたスペースでする。

職人のような気迫で鏡に向かっていた晴香さんにカーテン越しに話しかける。

「なんかいつもより気合入ってません?この後ラストまで仕事でしょう」

「さっきねぇ、今日から新人が入るって聞いたのよぉ。初対面の印象って大事でしょう?」

手早く制服に着替えてカーテンを開けると、楽しげな声の主はアイラインをマスカラに持ち替えており、着々と準備を進めている。

高校では部活三昧で、化粧への興味もあまりなかった上、校則もきっちり守っていたので、ほとんどすっぴんで過ごした私は、常にバッチリメイクを心がけている晴香さんの姿勢にかなり刺激を受けた。

リップクリームくらいしか持ち歩かなかった自分も、遅まきながら化粧ポーチを持ち歩き、化粧直しの習慣をつけるようになったが、一足飛びに晴香さんのようには出来ず、最低限のベースメイクくらいは死守している。

一番いい状態の自分を保ち続けるには努力が必要だ、という晴香さんの名言をいただいたのは、バイトに入ってすぐ。

落ちてしまっている口紅を塗り直す私の隣で、晴香さんは、ちゃんとリップブラシを使って口紅をひく。

ここが女子力の違いか。

晴香さんは鏡を見ながら、くちびるを合わせて色を馴染ませ、軽い音を立てて唇を開く。

そんな動作が女の自分が見ても、無駄に色っぽいと思う。

女子よりは、女性、という形容が合う晴香は、自分の周りにはあまりいないタイプの人間だが、バイトのシフトが一緒であることも多く、バイトの中でも特に打ち解けた。

年齢も一つ上だけれど、なんとなく馬があって面白くて、仲がいいと思う。

顔とは違い、意外と飾らず、ズバズバ意見を言ってくるところも、気兼ねなくて好きだ。

「ねえ、祥子ちゃん。オレンジのチークととピンクチークとどっちいい?」

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