手の届く距離
晴香にしては珍しく突っ込んでこなかったことを楯に、黙ったままでいるけれど。
本当は唇が落ちてきて、キスされると思って目をきつく閉じて俯いたため、結果的にでこチューされた。
そのまま俯かなければ立派に(?)キスしていたはずだ。
額に触れた唇と、引き寄せされた腕の力強さが印象に残っている。
刈谷先輩の一件が頭を過ぎった時点で、どちらにしてもあの日はついていけなかった。
けれど、解決した今なら、それ以上の進展を想像する余裕が生まれる。
今は急進展を望んでないと言えば間違っているが、望んでいると言っても語弊がある気がする。
広瀬さんの姿がぼんやりとした憧れだけで形どられている。
よく知りもしないのに、簡単に落ちる女、とか尻の軽い女と思われるのも嫌だし、自分の好きな気持ちを確かめたい。
この間の言葉通り、いい店で静かにお酒を傾けるとか、大人の飲み方を教えてもらうこととか、紳士的に家まで送ってもらうこととか、頭の中は暴走していく。
「やめやめ」
妄想の雲を払うように、前髪を整える。
気持ちを落ち着けるために深呼吸をすると、ガラスの向こうから歩いてくる広瀬さんと目が合う。
小さく手を振る姿に、慌てて立ち上がり、店を飛び出した。
広瀬さんは喫茶店で最後に見た場所から動かず、ラフなブラックジーンズ姿は歓迎会の時の印象とは違い、ぐっと若い印象に見せる。
これなら、隣にいてもおかしくなさそうだ。
行きかう人たちの間をすり抜けて、身軽でカバン一つ持たない広瀬さんの前で立ち止まる。
「反応早いね。さすが北村君」
バイト的にも機敏に動くことやお客様への要望や視線には日々気を配って仕事をしているつもりだ。
「ホールでの訓練が功を奏しました。広瀬さん、思ったよりずっと早かったです。長期戦覚悟してたんですから」
「ちゃんと、待ち合わせに間に合いそうな日を選んだつもりだよ」
晴香さんが言っていた、例の腕時計をこちらに見せながら、広瀬さんが言う。
時計は予定時刻を10分過ぎたところを指し示している。
喫茶店で粘る作戦は不発で終わって、喜びをかみ締める。
ココまでだけ見れば、普通に恋人の待ち合わせみたいだ。
「もし急に本社の仕事になったら仕方ないじゃないですか」
「そうやって言ってくれるとありがたいよ。どんな言い訳をしても遅刻は遅刻だからね。申し訳ない。さ、行こうか」
こういう価値観が違うと、一緒にいても喧嘩から始まってしまう。
広瀬さんの誠実な言い分に、価値観を合うことを感じてふわりと心が暖かくなる。
背中に手を添えられて、押されるまま足を進める。
行き先を決めていないのに、広瀬さんの確かな足取りに戸惑う。
歩きながら広瀬さんの顔をうかがう。
「えっと、広瀬さん行き先は?」
「ん?適当に入らない?この辺、店ならいくらでもあるだろう」
何も考えずに進める人らしい。
効率よく回るのが好きなのでちょっとだけ引っかかった。
しかも、今日は二人きりの初デートだ。
デートと呼んでいいのか、悩ましいところだが、こちらから誘ったとは言え、少しくらいプランを考えて欲しかったと思うのは贅沢だろうか。
たぶん忙しくてリサーチとか気が回らなかったと考えて、不満を切り捨てる。
「広瀬さんお腹の空き具合とか、食べたいものあります?」
特に希望がなければ折角の情報を披露する機会だ。
協力してくれた友人たち一人一人の顔を思い出しながら、感謝する。
「パスタとピザ以外で」
広瀬さんはすぐに勤務先のメインメニューを上げ、納得の意見に思わず噴出す。
「そうですね、仕事でいくらでも食べれますし」
「本当はリサーチのために他店舗のものも食べなきゃいけないんだけど、今日はデートだからパスだね」
少し渋い顔の広瀬さんが『デート』発言したことに、一人、心の中でガッツポーズをする。