手の届く距離
何事かと広瀬さんの行動を目で追っていると、隣に腰を下ろす。
近づいた距離に思わず後ずさろうと座面についた手の上から広瀬さんの手が重なる。
その手を確認しているうちに、顔が間近に寄ってきた。
「真っ赤になって、困った顔見せてよ、この間みたいに。すごく可愛かった」
前回とほとんど同じように、急に詰められた距離を思い出して体に力が入る。
反射的に俯いて目を伏せようとしたところを、今回は広瀬さんの手に阻まれ見つめ合ってしまう。
顎の下に添えられた手に逃げ場を奪われて、今のところ自由な視線だけを横に逃がす。
「そんなに緊張しないでよ、とって喰うわけじゃないんだから。初めてじゃないでしょ。大人なんだから」
「あ、あの、ここ店で」
小さく開いた唇の隙間から抵抗をこぼす。
あくまで個室『風』で、オープンな場所であるこの席は、すぐ横の通路を誰が通るともわからない状態。
「今度は逃げないで」
公の場所で、こうして迫られていることが2回目である自分の隙がどこだったかを探すうちに広瀬さんの唇が迫る。
触れるだけですぐに離れていく熱に、ほっと力を抜きかけた途端、2回目が遠慮なくかぶさる。
身体が逃げたが、背中が仕切りに当たるとそれ以上の後退は出来ず、追いかけてきた唇に容赦なく捕まる。
唇の内側を撫でるように広瀬さんの舌先が動き、かみ締めていた歯を開くよう要求してくる頃には羞恥心の限界だった。
隠れてもいない、誰にでも見えてしまうような場所でキスをする神経を持ち合わせていない。
男の人に、力で勝てないのは知っている。
だから、卑怯だといわれようが、乱暴だと罵られようが、身を守ることと勝つことが第一。
兄弟からスカートだとか、パンツが見えるとか小言を言われそうだが、ありったけの腕力で肩を押し、空いた隙間に足を突っ込んで、力任せに胸元を蹴ってやる。
兄弟喧嘩の取っ組み合いで磨かれた技だ。
予想通り身体が離れて、座面に転がる広瀬さんを見下ろすように立ち上がる。
頭の中が沸騰して、マネージャースイッチが入っていた。
「何やってんですか!そこに直れ!」
先輩だろうと後輩だろうと関係なく、おふざけが過ぎれば、誰かが注意しなければならない。
呆気にとられている広瀬さんに指差して怒鳴った自分が、次の句を続けようと息を吸った時ににハッとなって、突き出した指を引っ込める。
蹴飛ばされて、仰向けで肘をついた広瀬さんが、何も言えないまま固まっているのを認識して、自分のやってしまった感を痛感する。
「す、すみませんでした」
その場に正座をして、急いで頭を下げる。
高校を卒業して2年、マネージャー引退してから2年半は経っているのに、身体に染み付いた口調は部活で培ったもの。
こんな時に出てこなくてもいいのに。
ちょうどいいところにある穴、掘りごたつの中に埋まってしまいたい。
動く様子のない広瀬さんの顔を恐る恐る伺う。