手の届く距離
「ごめんはこっちだね」
自失から抜け出して体勢を整える広瀬さんの声に怒りは見えない。
しかし、同時に視線もこちらを向かなくなった。
何事かと顔を出しに来た店員を広瀬さんが大丈夫、とやんわり追い返してくれる。
「僕も大人気なかったね。ちょっと君のことを誤解していたし、気が急いていたみたいだ」
何を誤解していたのかを確認したかったが、それを許される空気では今はなく、口をつぐむ。
苦いものを乗せているが、頬杖をついた広瀬さんの笑顔がこちらを向く。
それでも居たたまれず、動けないのはこちら。
縮こまって俯いたまま、膝の上の手を握る。
「ほら、顔あげて。今あるもの片付けたら今日は帰ろうか」
広瀬さんは元々居た場所には戻らず、隣に居座ったまま机に残っていたたまご焼きから片付け始める。
ヒョイヒョイ細いからだのどこに入っていくのか、大量のお酒を投入したはずの身体に居酒屋メニューが消化されていく。
「あの、広瀬さん」
自分で招いた取り返しのつかない失態に、身の振り方がわからず、少しだけ膝を進めて広瀬さんの意識をこちらに向かせるのに成功する。
「本当にすみません」
「うん、もう謝らないで。僕が悪かったんだから、謝られると困る」
突き放すような言い方に、折角近く感じた距離も限りなく遠く感じた。
やっと掴んだチャンス。
やっと向き合きあおうと思えた人だ。
「広瀬さん」
これで最後にしたくない。
その思いが自分を突き動かす。
精一杯の力を振り絞って広瀬さんの服のすそを捕まえる。
「広瀬さんが嫌じゃないんです」
服の端を握り締めて、必死に伝える。
広瀬さんの震えが服越しに伝わり、視線を上げると声を殺しながら笑っていた。
「面白いなぁ北村君。面倒なのは嫌だと思ったけど、攻略したくなるね」
怒ってはいない言動に、強張っていた心がほどける。
攻略、という言葉には引っかかったが、言葉遊びと捉え、追求の食指を滑り込ませた。
「『攻略』の中に、彼女にするって項目がありますか?」
「もうなってるってことじゃダメ?」
欲しかった肯定を思いのほかあっさり、放り出すように与えられて、取り落とさないように拾い上げる。
「ごめんなさい、超鈍感で、言われないとわかんなくて。広瀬さんが、こうして二人で会ってくれたってことは、女子として見てもらえてるってことで、私の勘違いじゃないですよね」
「そうだね、じゃなきゃキスしようと思わない」
ストレートな発言に心が躍る。
晴香さんの見立てが外れたことを今からどうやって連絡してやろうか。
湧き上がる嬉しさを押さえ込むのに必死で、握った両手を膝に押し付けたまま、また動けない。
「嫌じゃない、って中に、この続きの了承も入ってると思っていいのかい?」
広瀬さんとしては続きを期待をしていたということを改めて確認させられる。
刈谷先輩とはこの辺りのやり取りをどうしていただろうか。
もっと、ゆっくり時間をかけていた気がする。
大人になると、とんとん拍子に行くものだろうか。
そろりと、近づいた広瀬さんの右手に気づいて、身体を触られる前に捕まえる。
「時と場所を選んでください」
「善処しよう」
少し心配になる返事の広瀬さんを聞いてから手を解放し、自分のジョッキを空けた。