手の届く距離
「うわー、なんかねぇ、ずるい。言わせて肯定しかしないって」
突然腹立たしげに持っていたグラスを音を立ててテーブルに戻す晴香さんに慄く。
晴香さんが怒るポイントがわからず、グラスを睨むのをそっと伺う。
「ど、どの辺が?」
「私は、そういうのは言わせたモン勝ちだと思ってるのぉ。だって、惚れたほうが負けっていうじゃない」
晴香さんの細い指に口の両端を掴まれ、おちょぼ口にさせられる。
「にゃにしゅるんでしゅか」
抗議の言葉もままならず、身を乗り出してくる晴香さんの右手が膝の上に乗る。
身動きがとれず、近づいてくる綺麗な顔を、化粧を落としても美人だなぁ、と思っているうちに近すぎる距離に慌てる間もなく唇が近づいてきて鼻にキスをされる。
驚いて思いっきり体を後ろに引くが、体重を乗せられた足は動かせず、倒れるように床に肘をつく。
掴まれていた頬は開放され、はっきり話せるようになるが、頬を掴んでいた春香さんの手は肩を押して、床に押しつけようと上から覗き込まれる。
「な、何?!なんで!」
晴香さんに押し倒されているような格好に、さすがに困惑する。
そういう趣味はないつもりだし、晴香さんだって誠君がいるのに、何をしているのだ。
男じゃないから浮気じゃないとかっていう屁理屈は通用させない。
「もう、祥ちゃん可愛すぎるし、無防備すぎるわ!そりゃ、簡単に手籠に出来ると思われちゃうのかもねぇ」
何を言われているのかピンと来ず、口を開けたまま言い返せない
晴香さんの中指と親指が円を作り、目の前に持ってこられると、思いっきりでこピンされる。
行動の関連性がわからず、驚いている私を気にも留めず、晴香さんは私の上から降りてテーブルに向かって座りなおし、空いたグラスに缶チュウハイの中身を追加する。
「祥ちゃんってさぁ、ちょっと、っていうかぁだいぶ?鈍感ー。信頼とか、好意があるから、基本抵抗しないでしょ。身の危険を感じる能力も低いし、理性でなんとかしようとする。力で何とでもなってしまうのに、理論で対抗しようとする。押しに弱いわね」
今の晴香さんの行動と広瀬さんからの行動を思い起こして、妙に納得してしまう。
「思い当たるでしょ?祥ちゃんのこと大好きだから、お姉さんにはわかっちゃうのよねぇ。そんなんじゃあっという間に食べられちゃうわよ」
伸ばされた晴香さんの指に警戒して体を固くする。
晴香に何をされても別に許すが、嫌なことは避けなければならない。
降りかかった火の粉は自分で払うのが当たり前。
晴香さんの指がたどり着いた先は、私の頭の上。
「少なくとも、祥ちゃんが目を覚ましてくれたのはよかったしぃ、あとはもうちょっと視野を広げるか、男を見る目を養うだなぁ」
そっと耳の上までゆっくりと撫でられる暖かさに、ふと目蓋が重くなる。
時間は日付がとっくに変わっている夜中。
ふわりと柔らかくなった空気に呑まれて、このまま眠ってしまいそうだったのに、私の携帯がメールの着信を知らせる。