手の届く距離
13cm
川原健太:魔が差した瞬間
感謝の言葉とともに身体を離した祥子さんは俯いて目元を隠していたから、俺も敢えて見ないふりをした。
祥子さんが我慢していた気持ちをこぼしたのは、ほんのわずかな時間。
個人的には、もう少し腕の中にいてくれてもよかったのだが、泣いていてもけして弱音も泣き声も上げず、嗚咽を飲み込んだ祥子さんは、こんなときにも先輩風を吹かせて、「遅くなるから帰るよ」と言ってきた。
時間も遅いので、家まで付き添ってから帰ることは譲らなかったけれど、帰路につくことには賛成。
祥子さんには早く休んでもらわなければならない。
祥子さんの自転車を、原付でトロトロ追いかける。
元々時速30km制限の乗り物は、制限速度上限で走っても怒られたり煽られたりするのに、さらに遅い速度で走行する俺に何度かクラクションが浴びせられる。
きっと深夜で気が立っている者だろうと放置する。
広い道路の片隅で走っているだけだ。
制限速度だって守っているわけだし、蛇行運転しているわけでもない。
構わず追い越せば済む話なのに、わざわざ絡んでくるのだ。
大抵俺が立ち上がると、偉そうに文句だけ垂れて去っていくのだ。
相手にするだけ馬鹿を見る。
自転車で風を切る華奢な身体が迷いなく真っ直ぐ前を見て進む姿は、祥子さんのいつもの姿勢を見ているようですがすがしい。
嫌な気持ちも、その姿を追いかけるだけで洗われる。
その身体をすっぽり自分の腕の中に納まったひと時を嬉しいと思ってしまった自分を恥じる一方、こんな状況でなければ祥子さんを手にすることができない自分を悔やんだ。
弱ったところを付け込んだ。
広瀬さんのことが好きなのはわかったし、うまく行ったと思っていたのに、この急展開はなんだったのだろう。
晴香さんから『本日バイト終了後、祥ちゃんに危機が訪れる予感。広瀬に注意せよ』という、突拍子もないメールが来て、悪いとは想いながら、こっそりスタッフルームの窓から様子を伺っていたのだ。
ほとんど聞こえなかったが、祥子さんが広瀬さんに見切りをつけたことと、広瀬さんがどうやら二股しているようだということはわかった。
二股を承知の上でまだ付き合いを続けたいと言われるのは残酷だ。
好意は嬉しいが、ずっと背徳感を抱えて付き合うなんて無理だ。
恋愛観というより、倫理観の問題。
祥子さんの好意が広瀬さんに向けられていただけに、それを利用されて複雑なはず。
細かいことは気に出来ない俺だって、由香里と別れた日は良く眠れなかった。
心身ともに疲れているだろうけれど、祥子さんが心配になる。
自分のことはいつも後回しにしやすい祥子さんは、学校だって真面目に行くだろうし、友達には大丈夫っていうだろう。
きっと誰にも泣き顔なんて見られたくなかっただろう祥子さんを、引き止めて泣かせた自覚はある。
強がって凛として見えた祥子さんの右手が震えるほど強く俺の腕を掴んでいて、弱さを隠すための代償に見えた。
だからせめて、一人で泣かないでほしかった。
気持ちを少し吐き出せるくらいは、近くにいたいと思った。
かっこいい祥子さんは、努力で造られた強い人だってことは知っている。
過ごしている年数が長いのは伊達じゃない。
学年が違い、頼りにされているわけでもない年下だが、しっかり者の祥子さんに何か力になりたい。
自分のときに、助けてもらったから、恩返しがしたい。
けれど男女で性別が違えば、考え方だって違うから、何がよくて何が余計かわからない。
祥子さんの自転車を追いかけ、家の前で立ち止まった背中に「また店で!」と声を掛けて、原付のスピードを上げて自宅へ走り始めた。
帰ってから、晴香さんに『ミッション終了。家に送り届けました。慰めてあげてください』とだけ、メールを送る。
身長だけあっても、晴香さんに頼むしか祥子さんを慰める術を知らない自分の小ささに、うなだれるほかなかった。
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