人間境界線
1
「人間になりたい、なんてバカなこと言う人なんていないじゃない」
ふいに、ミコが笑い始めた。
ミコはこういうことがあるから、反応に困る。
「そうだな」
とりあえず適当に流しておく。
どんなに冷たく当たろうが、ミコは動じず笑い続ける。
「だからさ、私たちが人間になりたい、なんて短冊に書いたらますます人間から遠ざかるのよ」
七夕の話か。
ミコの手には、不器用に作られた、短冊と思われる黄色い紙が握られていた。
複雑に考え悩むのならば、そもそも短冊など書かなければいい話だと思うのだが。
「人間になりたいって、書かないと人間になれないのに、書いたら人間からまた遠ざかるなんて」
神様は意地悪ね、とでも言うつもりだろうか。
「神様なんて、いないのよ」
意外な答えだった。
てっきりミコは、神を信じているのだとばかり思っていたからだ。
「生命に不平等な存在を、神様なんて呼ぶ必要はない。今も、どこかの国では戦争が起きていて、たくさんの命が消えているのよ」
笑顔で話すことだろうか。
二ヶ月ほどミコと過ごしているが、いまだに性格を掴めない。
「私たちみたいに、口にしたくてもできない。口にしなくちゃ叶わない願いを抱えた人もいる」
バス停が見えてきた。
このバス停で、ミコとは別れる。
「――あ、私も矛盾してる。神様がいないんだから、願いなんて持ったって意味ないんだ」
つくづくミコは悲しいことばかり言うな。
ミコの願いはいつか叶うよ。
そんな気の利いた声をかけてやればいいのかもしれないが、いつも喉まで出てとどまる。
「バスまだ来てない」
「ああ」
ミコは短冊を丸めて握りしめた。
そんなことするなよ。
せっかく作ったんじゃないのか。
ミコの目は、また本心を語っていた。
目は口ほどに物を言う。なんて言葉があるが、ミコの目は少し違う。
目は口以上に物を言う。のほうが妥当だろうか。
「お前、そんなんじゃいつまで経っても」
「わかってるよ」
わかってないから、言っているんだろ。
ミコの目を見ていると、心臓が絞られるような感覚に陥る。
口と“目”の言っていることが、一つも重ならないからだと思う。
「私、私ね」
ミコが何かを言いかけたとき、それを見ていたかのようなタイミングでバスが停まった。
「お嬢ちゃんだけかな?なるべく早く乗ってくれるとありがたいんだが」
時間が押しているらしい。
行けよ、と相槌をうつ。
「――ばいばい」
ミコの“口”は、何を言おうとしていたのだろうか。
きっと、いや絶対に、建前――嘘だ。
またミコの“口”からは嘘が零れようとしていたのだ。
他人に目を覗かれているというのはどんな気分なのだろう。
ミコは覗かれているのをわかっていて、広く見せているような気がする。
制御する術を、知っているような気がする。
遠ざかるバスを見送り、家路を歩いた。