GOING UNDER(ゴーイングアンダー)
 小学生のとき、琴子は保育士さんになりたいと言った。ものものしい建物の中で消毒液と薬品の匂いに囲まれて過ごすよりも、絶対その方が琴子に似合うと美奈子は思う。小さな子供に絵本を読んで聞かせたり、一緒にお絵描きをしたり、歌を歌ったり。きっと子供に慕われる。いい先生になれる。

「ねえ、琴、どうしてあいつにあんなこと言ったの?」

 並んで歩き始めながら、美奈子は聞いた。

「琴には小さな頃からの夢があったのに。それしかない、だなんて」
「だって……」

 琴子はうつむいた。

「あのときママが、初めてこちらを向いてくれたんだもの。付属中学に進んでお医者さんになるって言ったら、琴子ちゃん頑張ってねって言って、あたしを見てくれたの。笑ってくれたの。だから」

 そんな理由で、という思いと、やっぱり、という思いが、美奈子の心の中で交錯する。
 それしかない。本当に琴子は心の底から思っているのだ。それだけが、ママにとっての琴子の存在理由なのだと。そしてそれに反発することもなくただ従っている。
 無論、反発する元気など琴子にないことを、誰よりもよく美奈子は知っている。見捨てられる恐怖と、少女はいつも背中合わせだから。

 大学の理工学部で機械工学を専攻した知明は、今でもママとは冷戦状態だ。ママは兄の分の朝食をつくらない。兄はバイト先で夕食を済ませ、家で食事をとろうとしない。大抵は夜遅く戻ってきて、いつも家にいるママと顔を合わせようとしない。

 もしもそんな状態になったとしたら、琴子にはとても耐えられないだろう。
 ママの期待に添うことだけを願って一生懸命な琴子。けれども、それを歯牙にもかけない父親。突然やってきて宣戦布告をしていった少年に対してよりも、美奈子は琴子のパパに対して、いっそう腹立たしい思いになる。

「ね、琴……もしもだけど、もしもね……」

 少しだけ迷ってから、美奈子はこう切り出した。

「もし琴のパパが、あいつに病院継がせるつもりでも、幾つかの……幾つでも道はあると思うな。小児科のお医者さんになって、大きな病院に勤めて、そのあと独立して。例えば、私と共同経営なんて、どうかな」
「美奈と?」

 琴子は、目を丸くして聞き返す。
 美奈子は頷いた。

「うん。夢みたいな話だけど」
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