GOING UNDER(ゴーイングアンダー)
だから、努力することはちっとも苦ではなかった。宿題を見てあげるとき、琴子が理解するまで根気よく繰り返して説明することも。おっとりした琴子の仕草に合わせて待つことも。騒がしいクラスメートやちょっかいをかけてくる男の子から琴子を守ることも。アクの強い琴子のママに如才なく調子を合わせていくことすらも。
なのにこの頃、ときおり湧き上がるどうしようもない苛立ちを、隠しきれているかどうかの自信がない。
美奈子が琴子の気持ちに寄り添いたいとどんなに願っても、琴子はいつだってママにいいように振り回されて、へとへとに疲れて、それなのにいつもママの方ばかり見ている。だから美奈子は、ママの望みや思惑をまるで自分の心が望んでいることであるかのように信じたがっている琴子の、その思い込みの殻を、打ち壊したくて仕方がなくなるのだ。
夕べ自分は琴子に、キツいことを言ったのではないだろうか。ママに逆らってみたらいいのにという美奈子の言葉は、琴子には重荷だっただろうか。
今でも通学路になっている路地裏の細い通りを自転車で通り過ぎながら、美奈子は左右に目を走らせる。不動産屋のオフィス、貸し画廊と本屋とインド料理店とスナックが一緒になっているテナントビル。薄暗い人気のない公園。この時間にはもう店じまいを始めている小さな花屋。コンビニは開いていたが、アルバイトの店員は今は入れ替わっていて、あの頃よく構ってくれたお姉さんはもういない。
小学校は住宅街の奥まったところの小さな丘のふもとにある。土曜日の学校は正門に鍵がかかっていて、誰もいない。
正門の前に自転車を止め、美奈子は塀にそって歩き、西側の運動場の方に回った。
薄暗がりの中、しんとしたグラウンドの向こう側で、木陰のブランコのひとつが微かに揺れていた。小柄な少女は、少し俯き加減の放心したような顔で、ブランコに腰掛けていた。
美奈子は塀につかまって、その遠い人影に呼びかけた。
「琴!」
一瞬遅れて少女は顔を上げ、ひどく不思議そうな表情になる。
「……美奈? どうして?」
つぶやくような小さな声が、宵闇に吸い込まれそうになりながらも、美奈子の耳に確かに届く。頼りなげな琴子のその顔は、胸のあたりまである緩やかに波打つ栗色の髪に縁取られている。
美奈子はフェンス越しに、ブランコに近い場所まで歩いて移動した。琴子はゆっくりと立ちあがり、おぼつかない足取りで美奈子の方に向かって歩いてきた。