僕は悪にでもなる
幼少期
僕の名前は内田幸一。
幼き頃体験したこの悲劇により、未来の道筋が決まり、その道の両脇に大きな溝ができた。
まるで逃げられないように、渡れないように、その道しか歩めないように。

幼少期古いマンションで母と祖父と2人暮らしだった。
いつもと同じように、学校帰りに田んぼに群れるおたまじゃくしを眺め
小川の隅に立つ木の枝をへし折り、小川のすみについた藻をつついて
飛び出すザニガニを見て喜んで

夕陽を背に、枝を片手に、道をこつこつと叩きながら家路をすすんだ。

悪も曇りもない少年の心は飽きもせず、何を見ても美しく、優しく、
家路にむかう僕を夕陽、小川、空、森、全ての自然が優しく見送ってくれる。

ようやくマンションにつき、枝でリズムをとりながら階段をあがった。

ドアの前にたった時、いつもと違う雰囲気を感じた。

枝を片手に立ちすくむ幸一は、少しずつドアに近づき
耳をすませて、かすかに聞こえそうな音を拾おうと
ドアに耳をあてた。

何かが聞こえてくる。
何かがもごかいているような声。ちゃんと聞こえないけど、強く悲しくむなしい声で
確かに何かを必死で訴えてきている音。

僕はたまらずドアをあけて部屋にとびこんだ。

そこで見た光景は、大きな背中とその両脇に見える開いた母の足。
そして母の手はベットに縛られている。
何が起こっているのかわからない。
ただ大きな背中から悪意がつたわり、汚く動く腰とわずかに見える男のケツ毛と揺れる金玉。
獣のように息をもらしながら母にしがみつき、何かをしている。
母の声はきこえない。たまらなく恐くなった。

立ちすくんだ僕が見たもう一つの悲劇。

汚く聞こえる獣の息音に聞こえなかったけど、
やっと見つけた。ドアに耳を当てた時にわずき聞こえた何か訴えかけているような声。
それは、飼い犬のけんしろうの声だった。

ふらふらと痛さをまぎらわすように首を奇妙に回しながら
「ぐぃあーぐぃあー」
息ができない、たまらない悔しさと痛さと苦しみに耐えて泣いている。

喉を斬り裂かれていた。

首からだらだらと血をたらしながら
遠のく意識、今にも倒れそうに四本の足でささえ、

首を動かし、痛さをまぎらわしながらそれで僕から目をはなさない。
その目は虚しく、横目で訴えてきている。
僕は、けんしろうーと叫んで、そばまで走った。

すると男が気づき、獣のような目で一瞬、僕を見て、
ふとずる賢く、生半端な男の目に擦り変わり、慌てて怯えるように服を聞いて逃げて行った!

獣の下にいたのは、やはり母だった。
乱れた服と母とベット。

母が動かない。目をつぶっている。

右手には喉から血をたれながし地獄のように苦しむけんしろう。
僕は、どうしていいのかわからずパニックになった。

「けんしろーーー!。おかあーさーん!」

叫ぶことしかできない。
泣くことしかできない。

僕が、叫ぶ声に気付き、通りかかったおばちゃんが部屋に飛び込んできた。

乱れ眠る母、狂ったように血を垂れ流しながら。うなる犬とそれを抱えて
泣き叫ぶ少年。

すぐにおばちゃんは母の元へ駆けつけた。
肩を揺らし、名前を呼んでいる。

呼んでも呼んでもおきない母。繰り返し母の方を揺らしながら叫んでいるが
泣け叫ぶ少年が気になりこちらを見ていた。

ただ狂ったように泣けさけぶ僕は。駆け付けたおばちゃんの存在すら気付かず、ただ泣け叫ぶ。

そんな少年に、もはやおばちゃんは声をかけることも、事情を聴くこともできず、すぐにポケットに手を入れ、携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ!

自分の存在すら気付かずに血を垂れ流し、うなるけんしろうを抱いて
泣け叫ぶ僕。ここで尋常ではない出来事があったと察し
そっと抱きつつんで救急車をまった。

救急車が到着し、母が運ばれていった。
僕は、どうしたらいいのかわからなかった。
母も心配。でもけんしろうはまだもがいている。血を流し、首を回して痛みをこらえ。

でもおばちゃんに引っ張られて救急車に乗せられる。

「けんしろうが!」

「後でちゃんと病院に連れて行ってもらうからお母さんと一緒に乗りなさい」
遠のく、けんしろう。
痛さをこらえ、苦しみをこらえ、悔しさをこらえ、哀しさをこらえ
まだもがいていた。
その目は死んでいた。
その目で僕を切なく見つめ、どれだけもがこうとも、目を離さない。

僕は、そんな無残に傷つけられたけんしろうがかわいそうで、悔しくて
おもいっきり泣いて名前を呼ぶ。

でもおばちゃんに手をひかれて玄関まで行き、
扉が閉まった。

残されたけんしろう。
泣け叫ぶ僕。
眠る母。
見送ったおばちゃん。

僕は、ただおばちゃんにけんしろうを助けてくれると信じ、
たまらなく込み上げてくる悲しみをこらえ母の顔を見た。

どこかいつもより顔が白く、目を覚まさない母を見て
もう二度と目を覚まさないのではと、たまらなく怖く悲しく。

僕は、ただ泣くだけ。
叫ぶだけ。
何もできなかった。

そして病院について、母は緊急病棟へ運ばれた。

看護婦さんが僕のそばに来て、
「お母さんは大丈夫だからね。もう泣かないで。他に家族の方は?」
と聞かれた。

「おばあちゃん」

とそれだけを言った。

「わかった。じゃあここで待っててくれる」
そう言って走って行った。

そこからはよく覚えていない。
一瞬におきた衝撃的な悲しみ。

気付いた時にはイスに横たわっていた。

「こうちゃん、こうちゃん」

誰かが、僕の肩を揺らした。

目をあけると、おばあちゃんが病院にかけつけていた。

「こわかったね」

そう言って、抱きしめてくれた。

「お母さんは」

「大丈夫、すぐ元気になるから。ここで待ちましょ」

「けんしろうは」
少し涙ぐみながら言った。

「大丈夫。おばちゃんが病院につれて行ってくれるから。今はお母さんのそばでいようね」
僕はうなずいて、しばらく何も言わずばあちゃんの膝の上に頭をのせて、横になっていた。

「内田さん!」
そう叫びながら看護婦さんが走ってきた。

「意識を取り戻しました。もう心配ありませんよ。今病室に移動していますからご案内します」
そう言ってばあちゃんと僕は看護婦さんについて行った。

病室の前につき、看護婦さんが扉をあけた。

「まさみ!」
そうばあちゃんが珍しく声を張って名前を呼んだ。

僕は、恐る恐る、母に近付き目があった。
母は僕の顔を見た瞬間に顔をくしゃめて溢れんばかりと涙が垂れ流れる。

「幸一、ごめんね。こわい
思いをさせたね。ごめんね。ごめんね。」と
繰り返す。

僕も泣いた。何も言わずに泣いた。
やさしさあふれる母の顔が悲しさだけに包まれていた。

母はもちろん自分の身に何があったのか、分かっている。
ばあちゃんもなんとなく察しているようで、何も言わずに
母を見つめ、無事に意識を取り戻したことに、安心していた。
でも僕は、母の身に何が合ったのかはわからない。
ただ失いそうで、もう会いえなくなるような気がして
悲しかった。

3人は非日常的で、衝撃的で不幸極まりない半日を終えて
明りを消して横になった。

母は込み上げる憎しみ。自分の罪への悔いに。
耐えきれず、唇をちぎれんばかりと噛んでいる。

母のすすり泣きを聞きながら
僕は、あの獣のような男の背中を思い出し、
想像できないような痛み、苦しみ、悔しさに耐えてながらも訴えてくるけんしろうの切ない目を思い出す。

汚く、激しく、あふれる男の息音が聞こえてくる。
血まみれになり、うなるけんしろうの悲惨な鳴き声が聞こえてくる。

繰り返し、繰り返し。聞こえてくる。

悔しくて、怖くて僕も唇を噛んでいた。
母の身に何が起こったかなど、わからないけれど。
その獣のような男に、何かをされたくらいわかる。
母もけんしろうも。

この時僕は初めて人への悲痛な憎しみを、腹の底から感じた。
確かに初めての感情が、あの時湧き上がった。
けんかやいじめなどのレベルではない。到底小学生では感じることのない。
重たい重たい憎しみを。

この日体験した。
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