脳をえぐる小説集
ボールペンを握ったとき、自分の手が震えていることに気がついた。
田倉の時とはちがう。今度は書けば人を殺せるとわかったうえで、あの少年を殺す文章を書こうとしているのだ。
やはり、怖い。
人を殺すと、どういう気分になるのか。
わからないから、怖い。
しかし、書かなければならない。
行人は、手に力をこめて、ボールペンを動かした。
『あいつは喉を切られて死ぬ』
これだけ書いた。
田倉とちがって、あの少年に恨みはないので、長々といたぶる描写は必要ない。だが、死ぬ、という言葉は、濃く、しっかりと書いた。
行人が窓を開けると、ノートはひとりでに宙に浮き、外へ飛んでいった。
ノートが夕闇に消えるのを確認してから、窓を閉じてベッドに寝転がった。
短い文章を書いただけなのに、なんだかひどく疲れた。まるでノートに生気を吸い取られたかのようだ。いや、もしかしたら、本当に吸い取られているのかもしれない。
台所へ行って、冷蔵庫にしまってある麦茶を飲んだ。
今夜は両親が家にいない。父は仕事で出張。母は町内会の用事で、集会所へ出かけている。
家の中は静かだ。
冷蔵庫のモーター音や、シンクの蛇口から水滴の落ちる音が、はっきりと聞こえてくる。
人を殺した日に、両親と顔をあわすのは気まずいので、行人は安心した。
部屋にもどって、ノートの帰りを待った。
時間がたつのが長く感じられた。
マンガを読んでいても、スマートフォンをいじっていても、ノートのことが気になって集中できなかった。
ちゃんと殺してくれただろうか?
どうしても、嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。
あの少年に逃げられてはいないだろうか。
もし殺せたとしても、もしかしたら、あの少年はすでに警察にノートのことを話しているのではないか。
しかし、その後に起きた出来事は、行人のどんな想像をも超えるものであった。