脳をえぐる小説集


陸は、あわてて周囲を見回した。が、部屋にその声を発している物はない。
声は、壁の向こう、隣の部屋からひびいていた。


テレビで見た自転車のものとはちがう。何かはわからないが、とにかく物の声だ。この声にも、どろりとした、黒くて焼けるほど熱い何かがまざっていた。


何が起きているのかはわからないが、隣の住人の部屋にある、どれかの物が、あの自転車と同じ状態になっているということは理解した。


陸は、激しくなる動悸を静めようと、ゆっくりと呼吸をした。


そのとき、また、聞こえた。
今度はあの声ではない。ひとの悲鳴だ。
隣に住む、林律男という大学生の、泣き声に近い叫びが、薄い壁越しに聞こえてくる。


自転車のニュースを思い出した。ひとが殺されたのだった。


もし、隣の物も動きだして、林を襲っているとすれば。


「大変だ」
つぶやくと同時に、陸はわかった。隣の物の声にふくまれる、どろりとした黒くて焼けるほど熱い何かの正体に思いいたったのだ。


これは殺意だ。


純粋な殺意が、物の声色を、胸がむかつくほど、おぞましいものに変えているのだ。


隣から、食器の割れる派手な音がひびいた。
「林さん」
陸は、壁越しに呼びかけてから、部屋を飛び出し、廊下に駆け出た。すぐに林の部屋の前に立ち、ドアノブをにぎる。しかし、鍵がかかっている。
「林さん、大丈夫ですか?林さん」
ドアをたたきながら叫んだが、返事はなかった。代わりに、重いものを落としたような、ごとっという音がした。それから床を殴りつける音と、何かをひっかくような音がしたあと、急に何も聞こえなくなった。


陸は少しさがると、歯を食いしばって、ドアに思い切り体当たりをした。
古い木のドアは簡単にこわれた。ずれて開いたドアの隙間に体をねじこんで、むりやり部屋の中にはいった。
陸の住居と同じ、六畳一間の間取り。入り口近くの流し場には、割れた食器が転がっている。部屋の真ん中には、布団が敷いてあって、本やCDがまわりにちらばっていた。
その上に、林律男がたおれていた。
陸は、口をおさえて、小さくうめいた。



死んでいる。



一目でわかった。



林の全身のあらゆる所に、たくさんの小さな穴が開いていた。まるで、キリで何度も何度もめった刺しにされたかのようだった。その穴のひとつひとつから血がたれており、その多数の血の線は複雑に交差していて、林の死体は赤茶色の網におおわれているかのように見えた。
「うう」
陸はその場にうずくまって片膝をついた。
生まれて初めて、死体を見てしまった。
誰が、いや、いったい「何」が、林を殺したのか?
陸は、室内の様子を慎重に確認した。




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