アロマティック
 男から舌打ちが聞こえて、みのりから本を横取りしようとしていたその手が緩む。強く引っ張る力が突然消えてふわっと軽くなり、その場に踏ん張るようにして本を掴んでいたみのりは、そのままバランスを崩してひっくり返った。

「あっ……!」

 床に尻餅をついたみのりの視界のさきに、男の逃亡する姿。その姿は間もなく角を曲がって見えなくなった。

「いったー……」

「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。お騒がせしてすみません」

 集まってきた野次馬に心配されて、痛めたお尻を撫でながら立ち上がる。
 しかしその目は、恨みがましく男の消えた方向を睨み付けていた___。



 その本屋で大恥をかかされた時に聞いた声と、全く同じ声が後ろから聞こえるのだ。
 みのりは後ろを振り返り、個室と個室の間の仕切りを睨み付けた。
 特徴のあるあの低音ボイス。この向こうにいるのはあの男だと、確信をもっていえる。
 仕切りの向こうでは、問題の男の話しがまだ続いていた。

「ゆずってくれっていったって全く聞かない頑固な女でさ、強情で頑固ってどうよ? 手に追えなくね?」

 わたしの悪口にしか聞こえない。
 強情で頑固。
 よくそんな言葉を並べられたものだわ。
 問題の男は聞こえてないと思って言いたい放題。ますますイライラがつのっていく自分を落ち着かせるように、みのりは大きく息を吐いた。
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