アロマティック
 それに相手は、いちばん害の無さそうな天音だ。

「練習、終わった?」

 気を取り直して話しかける。

「皆さん続けてます。ぼくはトイレといって抜け出してきました」

「ここ、トイレじゃないけど」

 天音の長身の体が壁になって、どこにお手洗いがあるのかは確認にできないけど、ここにないのは確かだ。

「トイレ? そんなの口実ですよ」

 くすりと笑う天音のその笑顔に、なぜか陰があった。僅かな距離を詰めるように、天音の屈めた上半身が少し近づいてきた。

「口実って……」

 近づいてくる天音に、落ち着いてものが考えられなくなってきた。だって彼は、まるでキスをするように顔を近づけてきている。

「やっとふたりきりになれた」

 頬に天音の息がかかる。パニック寸前のみのりの心臓が激しく胸を叩く。
 みのりの腕に抱えたペットボトルに圧がかかり、パキッと悲鳴をあげた。
 静かな廊下に、自販機の電子音がやけに大きく響く。

「ねぇ、このあとぼくの部屋へおいでよ」

 ソプラノボイスが低音でささやくと、セクシーボイスに変化を遂げるのだ。心まで震わすその声の影響力は半端なく、心ごと持っていかれそうになる。

「皆で、ってことかな……」

 みのりは会話に集中しようと努力した。

「違うよ」

 体ごと1歩距離を詰めた天音は、逃げ場のないみのりを自販機に押し付けた。その耳元に、天音の唇が危険なほど近づく。

「……ふたりで」

 自販機に背中を押し付けながらみのりは思った。
 やっぱりこの距離は普通……じゃない。

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