音の生まれる場所
坂本さんの送別会は、十二月に入ってすぐ行われた。
あの発表の日から久しぶりに会った坂本さんは、慣れないドイツ語と悪戦苦闘していた。

「明日から日本語圏じゃなくなると思うと緊張する…」

楽団の皆とそんな会話をしてる。
寂しいと思ってる私とハルは、バカみたいに酔っ払って笑い転げていた。

「真由子、飲み過ぎ!帰れなくなるよ!」

シンヤが心配してくれる。

「だいじょーぶ!もしもの時はナツに連絡していいって言われてるから!」

絶対に飲み過ぎると思っていたから、予防線張っておいた。
下手するとまた、誰かの部屋で眠り込んでしまうから。

「シンヤも飲めよー!ノリ悪ぃぞ!」

私の目から見ても悪酔いしてるハルがビールを注ぐ。
その横で、同じようにビールを傾けて遊ぶ。
坂本さん本人に近づかないのは、言ってはいけない事を言い出しそうだから…。


「真由子もハルも完全飲み過ぎ!もっさん、なんとか言ってやって下さいよ!」

泣きつく相手がヤバい。
肩に柳さんの手を回した坂本さんが、困り果てた顔で近づいて来た。

「どーも!」

ヘラヘラ挨拶。送別会の主役そっちのけで盛り上がっててごめんなさい。
こうでもしないと、涙が我慢できないから…。

「小沢さん、本当に飲み過ぎだよ。いい加減ここらで止めないと、帰れなくなるよ」
「だいっじょーぶですっ!子供じゃありませんから!ちゃんと帰れまーす!」

テンションMAXに近い?
坂本さんの前だから、わざとそうしているだけ。

「だいじょーぶだよ!」

酔い潰れてるのかと思ったら、柳さんが顔を上げた。

「いざとなったらまた俺の部屋に泊めてやっから!ねー?真由ちゃん!」
「ねー?柳さーん!」

酔っ払いの戯言。本気なんかしていない。
なのに坂本さんはムッとして、急に私の腕を掴んで歩き出した。

「えっ⁉︎あの、坂本さん⁈ どこ行くの⁈ 」

会場を出て、外のテラスまで歩かされた。
十二月の夜風は冷たくて、いっぺんで酔いが吹き飛ぶ。

ペチペチと頬を叩かれる。
そんなに痛くないけど、私が何をしたと言うの…?

「君は、ちっとも危機感がない!」

怒った顔してる。どうして…?

「この間、リュウと二人で飲んだ時のこと、まるで記憶にないんだね!」
「…えっ?この間…?」

三週間くらい前、坂本さんが渡独するって正式に発表された日のこと…?

「あの晩、リュウは危うく、君に手を出しそうになったって言ってた!」
「えっ⁉︎ うそ…」

そう言いながらも思い出す。ブラウスのボタンが外れていたこと。

(まさか…そんな…)

ギュッと胸の前で手を握る。酔いが完全に冷めてしまった。

ショックを受けてる私の横で、呆れた顔してる坂本さん。
柳さんの告白を聞いて、どう思っただろう…。

「小沢さんがリュウを好きなら、僕は何も言わないけど…」

その言葉に振り向く。

好きじゃない。柳さんはいい人だけど、好きじゃない。

(私の…好きな人は…)

喉元まで出かかる思い。それを今、口にして誰が喜ぶ…?

「……好きじゃないです…柳さんはいい人だけど…」

噛みしめるような思い。今ここで告げても、明日にはもう、この人はここ(日本)にいない…。

「私…好きな人とか特にいません…すみません…坂本さんの言う通り、軽率でした私……」

心配して怒ってくれる人。私の大好きな人…。

「これから気をつけます…坂本さんに怒られたこと、忘れずにいます…」

最後の最後でもらった言葉がコレなんて、情けない限りだけど…。

「…僕はただ…君にもう泣いて欲しくないから言っただけ。分かってくれたならいい…」

ホッとする。優しい眼差し。この瞳に会えるのは、これが最後じゃない筈なのに…。

(ヤバイ…泣き出しそう…。何とかしないと…)

「坂本さん!私…もう少し酔いを冷ましてから入ります。先に中に入って下さい。風邪引いたら、ドイツに行けなくなるから…」

夢を叶える旅に出る人…。どうか健康にだけは気をつけて…。

目に涙が溜まっていく。いけない。ホントにヤバイ…。

「皆、坂本さんのこと待ってますよ!だって今日の主役だもん!」

クルッと向きを変える。そしたらもう、涙は見えない。

「早く行っちゃって下さい!私もすぐに戻りますから!」

後ろを向いたまま手を振る。
坂本さんが今、どんな顔をしてるか、気になるけど振り向けない。

「分かった。先に行ってるから」
「はい!じゃあ後でまた!」

チラッとだけ振り向く。勿論、顔半分も見せずに。去って行く足音を確認する為にだけ…。

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