追憶のエデン
ひたすら考えないように歩き、気付けば廊下を走っていた。


そうして逃げ隠れるかのように適当な空き部屋へと入れば、窓辺に重厚感溢れるグランドピアノが置かれている部屋だった。全体をブルーを基調としたクラシカルな家具が置かれていたが、ここはピアノの為だけの部屋の様だった。


(こんな部屋があるなんて知らなかった。
小さい頃からピアノが大好きで、今でもどんなに忙しくても毎日弾いていたのに…。それが遠い昔の様に感じるな……。)


――ポロン…


ピアノの蓋を開け、優しく鍵盤を叩けば、音ズレもなく、気持ちのいい音色が心に綺麗な波紋を作る。
息苦しくもがく体内は、呼吸を求めて鍵盤をそっと叩いていき、そして椅子へと座り、少しだけ楽になった呼吸でもう一度鍵盤に手を添え直し、感情を奏でる。



――Beethoven Piano Sonata No14 《Moon Light》――



嬰ハ短調の切なげで静かなメロディーが心を慰めてくれるよう。
そして苦しかった心は、第二楽章でふわふわと伸びやかな、長調の明るい旋律へと変えていく。しかし誤魔化すことの出来ない、行き場のない感情を表すかの様に、テンポを速め、重く激しいのに繊細な短調のメロディーへと第三楽章で一変する。


気持ちを吐き出す様にありったけの感情を音へと乗せて奏でていく。楽譜通りの物語じゃない、あたし自身の物語を描いていくように。


そして最後の音を叩き終われば、全て出し切ったかの様な、荒い呼吸が口から吐き出され、瞼の裏では二人の姿がこびりついた様に離れない。


(あの二人が何をしていようと、あたしには何の関係もないじゃない――。)


絡みつく感情を抑えるかのように腕で光を遮れば、近くにあったソファーへと足を投げ出して横になり、意識を無理矢理沈める事にした。
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