今宵も、月と踊る
今思えば……普通の人と同じことをしてみたかったのだろう。
例えば、髪の毛を伸ばすこと。ヒールのある靴を履くこと。食生活が乱れた怠惰な生活を送ること。
陸上選手としてトレーニングに明け暮れていた頃に諦めていたことを実践することで、走れなくなった自分の心を慰めていたのだ。
物腰の柔らかい彼とはこれまで目立った衝突もなく、てっきり穏やかな愛を育んでいるのだとばかり思っていた。
互いの趣味も食べ物の好みも知り尽くして、隣にいるだけで湧いてくる安心感と充足感に満足していた。
けれど、そこに愛はあっただろうか。
プロポーズを切り出されて、初めて分かった。
恋人に結婚して欲しいと言われたら泣いて喜ぶはずなのに、俄かにちらつく“結婚”の二文字に私は恐れさえ感じていた。
……彼を愛してなどいなかったのだ。
その結論に達した瞬間、とてつもない罪悪感が押し寄せてくる。
これから吐く言葉が彼をひどく傷つけてしまうことを知っていたからだ。
“ごめんなさい。一緒には行けません”
ナプキンに落ちる雫は一体、誰のためのものなのか。
……こうして、私と彼の長きに渡る交際は幕を下ろしたのだった。