今宵も、月と踊る
零したコーヒーの代わりに水を一杯もらって、喉の渇きを潤す。氷がカランと鳴って空っぽのグラスの中で踊った。
「随分詳しいのね」
「あの辺に住んでいて、橘川家を知らない人はいないわよ。昔はあの一帯全部橘川さん家の持ち物だったらしいし」
(全部……?)
現在の橘川家の敷地も十分広いがそれ以上となると、想像もつかなかった。
「志信さんが月岩神社で舞を奉納していることは知ってる?」
「うん」
「橘川家は宮司でもないのに代々、舞の奉納を任されているんですって。それだけでも特別よ」
「……うん、そうね」
志信くんは特別だとはっきり言われて、共感することしかできない。
……桜の花びらが降る中、舞う彼はとても綺麗だった。
春の穏やかな風にのせて揺れた長い睫毛。引き結ばれた薄い唇。凛と顔を上げた志信くんは、空に向かって小さな螺旋を描いた。
透きとおるような真昼の月があることに気が付いたのは、彼が榊を振るったからだ。
己の犯した罪が何もかも許されたような錯覚さえ起こしそうで、私はこんなに美しいものがこの世にあるのかと本気で考えた。
あの時、志信くんは何を想っていたのだろう。
彼はそのままどこかへ連れ去ってしまわれそうなほど儚い存在に見えた。