今宵も、月と踊る

「桜木さんには僕が見込んだ男とぜひ結婚してもらいたかったなあ……」

社長が残念そうに肩を落としたので、うっと言葉を詰まらせる。

そう言えば、何度もお見合いの話をもらっていたのに、気が向かないからという理由で断り続けていたのを忘れていた。

都築さん経由で彼氏の存在をほのめかされると、パタリと止んだが諦めたわけではなかったのか。

「すいません。結局、一度も話をお受けできなくて……」

アハハと誤魔化すように愛想笑いをすれば、社長もまたガハハと大きな声で笑って答えた。

「まあまあ、気にしなくていいよ。これはあくまで僕の願望だからね」

社長はガラステーブルから退職願を取るとデスクの引き出しにしまった。退職願は正式に受理されたことを意味する。

「頑張りなさい」

「はい」

温かな激励に思わず目頭が熱くなる。

陸上の世界を退いて普通の社会人としてやっていけるだろうかという不安の中で就職活動を始めて、唯一内定をもらえた企業が“アートメイク”だった。

(この会社で働けて良かった……)

私に残された時間は少ない。それでも、最後の日がやって来るまでこの会社のために一生懸命働こうと思った。

< 272 / 330 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop