恋宿~イケメン支配人に恋して~
黙ったまま正面に立ち、手際よく丁寧に襟を正す指先。
着物の下には肌襦袢を着ているから見えたりはしないけど……でも、さすがにこの距離は緊張する……!
布越しにウエストや肩に触れる長い指先が、不意に心をどきりとさせる。
「あの……なんで、あそこに?」
「他の仕事が片付いたから広間に行ったら、八木から言われたんだよ。『部屋までお客様送るって行ったけど、不安だから見に行ってあげてほしい』って」
「八木さんが……」
話しながら手早く着物を直し終えた千冬さんは、帯を簡単に巻くと『はい、終わり』とでも言うように、私のお腹をぽんっと叩いた。
「酒が入って羽目を外す客が多いとは聞いていたが……今回のは男スタッフをつけなかったこっちのミスだ。悪かったな」
「いえ……寧ろ、私のせいでここの評判が下がったら、すみません」
ぼそ、と呟いた私に、彼は少し驚きを見せた。かと思えば、私の額にピンッとデコピンをする。
「いたっ!」
「バカ。さっきも言っただろ、批評のひとつやふたつじゃうちの旅館はビクともしないって」
「けど、」
「例え評判を守るためだとしても、代わりに従業員を傷つけることが正しいとは俺は思わない」
子供に言い聞かせるように、私の顔を両手で包み捕らえると、まっすぐ見つめる黒い瞳。
その眼差しが、彼の言葉が嘘偽りのない、強がりでも見栄でもないことを教えてくれる。
「怖かったな、ごめん」
そしてかけられたのは、優しい声。肌に触れる温かな手に込み上げる安心感は、それまで張り詰めていた糸を不意に断ち切って、涙となって溢れ出す。