恋宿~イケメン支配人に恋して~
「んじゃ、走らせるからシートベルトして」
広々としたトランクに荷物を積み込み終えたのだろう。運転席に乗った宗馬さんも同じようにシートベルトをはめると、慣れた様子でエンジンをかけ車を走らせた。
細い道から少し広めの道に出ると、そこはいつもバスで通る道路。同じ道のはずなのに、普通の車とバスでは違う道のように感じられる。
「にしても、あんな大荷物買いにくるなら車で来ればよかったのに」
「あんな大荷物だって分かってたら一人でなんて来ません。そもそも私車の免許ないですし」
「え?その歳で?あ。そういや都会育ちって千冬が言ってたっけ。なら無くても困らないか」
思い出したように言いながら、車は目の前の赤い信号に止まる。
なにげなしにハンドルを握るその手をみれば、大きなその手は荒れており、切り傷や汚れが刻まれ痛々しい。
……そういえば花屋って、水仕事が多いから手荒れしやすいんだっけ。小さな怪我や木の樹液で汚れたりもするだろうし……大変なんだ。
その苦労は、指先ひとつで感じ取れる。
「宗馬さんは、このままあのお店を継ぐんですよね」
「まーね。子供の頃から『跡継ぎ』って言われてきたし。俺は千冬みたいな変な反抗期もなかったしね」
それは両親に反抗して『旅館を継がない』と一度はここを出て行った千冬さんのことを指しているのだろう。
はは、と彼が小さく笑えばぱっと青色に変わった信号に、車はまた道路を走り出す。
「子供の頃から……。でもそれで本当になっちゃうんだから、すごいですね」
「すごくはないでしょ。他にやりたいこともないから、後を継ぐことにしただけ」
素直に褒めるのは癪だけれど、すごいと思う気持ちは本当だから。ついこぼした言葉は、宗馬さんにあっさりと否定される。
「家が『昔からの花屋』って職を持ってただけで……俺自身にはなにもない。千冬みたいに、死ぬほど苦労してなったものでもないし」
ちらりと見れば、つぶやくその横顔は少し寂しげだ。
『俺自身にはなにもない』
自分はなにも持っていない。それは、以前自分も抱いていた気持ちと同じもの。
なにもない、からっぽな自分。同じ気持ちだけど、あの時の私とは違うものがある。