恋宿~イケメン支配人に恋して~
「あっ、ちーぃちゃーんっ!」
それから、宴会の仕事と合間に部屋の就寝準備、そして宴会の片付け……と一通りの仕事を終えた夜23時。
この時間まで動きっぱなしだったとは思えないような明るい声が、別館の廊下に響いた。
……この声は。
部屋に戻ろうとしたところ、たまたまその場を通りがかりちらりと見れば、別館1階の廊下では明日香さんが千冬さんの腕にぎゅーっと抱きついている光景があった。
「ちぃちゃんももう仕事終わり?今日ちぃちゃんの部屋泊まってもいいー?」
「いいわけあるか。離れろ」
気持ちを振り向かせてみせる、と言っていただけあって積極的だなぁ……。
ベタベタとくっつく彼女に止めに入りたいけれど、ただの仲居があの場に入ったら不自然だし……。
割り込みたい気持ちをぐぐっと抑え、物陰に隠れると二人の様子をうかがう。
「えーっ、昔は毎日一緒に寝たしよくお風呂だって一緒に入ったじゃーん!」
「付き合ってた頃の話を大声で言うな!つーか時間考えろ!声抑えろ!!」
千冬さん、あなたも声大きいですけど……。
ていうか一緒に寝てたとかお風呂とか……聞いてはいけない話な気がする。
「ちぃちゃんの好きな微糖のコーヒーだっていれてあげるよ?」
「いい。コーヒーくらい自分でやる」
「えー?ご飯も作るよ?あ、玉ねぎ食べられるようになった?お化けと高いところ苦手なの直った??」
「あーもううるさい!!」
あれこれと世話を焼くように言う彼女に、千冬さんは腕を引き離すとスタスタとその場を去る。
けれど彼女は「ちぃちゃんってばー!」とめげることなく追いかけ、二人は本館の方へと消えて行った。
「……、」
『大丈夫』『信じてる』
そう思ったばかりなのに、それなのに。やっぱり心は不安になる。
だって、私は知らないことばかり。
千冬さんが、微糖のコーヒーが好きなこと。玉ねぎが嫌いで、お化けと高いところも苦手なのこと。
今この瞬間に、初めて知った。
私が知らないことばかりを知っている彼女。それだけのことに大きく置き去りにされた気がして、過ごした年月の差を思い知る。
……追いつけない。
小さなヒビが、音をたてて刻まれた。