恋宿~イケメン支配人に恋して~



「……私さ、ちぃちゃんがご両親亡くして『旅館を継ぐ』って言った時、一緒に来ることを選ぶのに迷わなかったの」

「え?」

「だってちぃちゃんのこと大好きだったんだもん。意地悪で不器用で……だけど優しいちぃちゃんのためなら、迷うわけがない」



『迷わなかった』。それは、あの日ここにいることを選んだ私と同じ気持ち。

彼のそばにいたい。知らない土地、分からないことばかりの仕事。だけど、千冬さんといたいから。

不安より、愛しさを選んだ。



「修行先の旅館での仕事は本当大変でさ、ましてや私なんて接客業のこともよく知らない素人だったし」

「あ、私も同じです」

「敬語とか礼儀とか慣れるまでつらいじゃん?けどやるしか1年しかないからさ、限られた時間の中で、頭にも体にもあれこれ詰め込んで」



「本当つらかった〜」と当時を思い出すように眉を下げる。その表情から知るのは、彼女にとってそれらの時間はつらかったけれどいい思い出になっているのだろうこと。

私と同じようなところからスタートして、だけど違うのは。



「大変なのはちぃちゃんも一緒だった。ううん、私よりもっと大変だったと思う」

「千冬さん……も、」

「だからなにも言えなくて、いつしか『女将としてちゃんとやらなきゃ』っていうプレッシャーが重くなって。不安になる度、家族や地元の友達に電話して、その度懐かしさや身内の恋しさに余計弱くなっていった」



明日香さんには、頼れる人がいなかった。



今の私には、めげたら励ましてくれる人たちがいる。宗馬さん、八木さん、箕輪さん……そして、千冬さん。

だけどその時の千冬さんは、今のようにしっかりとしていたり気にかけられる余裕もなく、弱音もつらさも飲み込むしかなかったんだ。



「私もちぃちゃんも心身ともに疲れきって、余裕もなくなって……そのうち喧嘩も増えてきた。今思うと、『なんで分かってくれないの』ってそればっかり思ってた。何も、言ってないのに」



言えない言葉。伝わらない気持ち。どうしようもない思いばかりが、積もりに積もって。



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