恋宿~イケメン支配人に恋して~
「……お前も宗馬も『逃げた』って言うけど、ここを出て行ったことは、悪いことじゃないだろ」
「え……?」
「あの頃はなにもかもが手探りで、必死で、お前が不安や悩みに押し潰されて出て行ったのは俺のせいでもある」
明日香は『もう逃げないから』と、宗馬は『逃げ出して千冬を置いていった』と、二人が口を揃えて言う『逃げ』の言葉。
だけど、明日香がここを去ったことを逃げだとは思わない。そして、それを悪いことだとも思わない。
つらかった、苦しかった、仕方がなかった。何一つ救えなかった、俺のせい。
だから明日香は悪くないんだ。だから、そんなに自分を責めないでほしいんだ。
「それに、逃げたんじゃない。……去ることだって、勇気がいる」
小さく呟いた声にあわせるように、吹いた風は明日香のうなじのおくれ毛をそっと揺らした。
「4年間って時間を明日香が努力したのと同じように、俺もした。仕事のことはもちろん、恋愛も。誰と付き合っても結局自分では誰も支えられないんじゃないかって怯んだところもあって……一生ひとりなんだろうって諦めたこともあったよ」
忘れよう、忘れようと意識する度思い出していた日々。
けれど、年月は自然と記憶を薄れさせ、いつしか心の奥の箱にしまってふさいだままでいた。
蓋が開きそうになる度に急いでしめて、このまま触れずに開けずにいればいいとさえ思った。
「けど今の彼女と出会って、変わった。守りたいと、側にいたいと思ったんだ」
蓋をそっと開けたのは、細い指先のその手。
理子、だった。
「正直明日香と比べれば、愛想も悪いし愛嬌もない。ふてぶてしくて世間知らずで、仕事に関してだって半人前もいいところだ」
「ならなんでっ……」
「だけど、まっすぐなんだよ。不器用ながらも必死に、相手を思って大切にしようと頑張ってる。彼女が想うのは俺のことだけじゃない、この旅館ごと、想ってくれてるんだ」
俺だけじゃない。この旅館を、皆を、ひとつひとつ見ている。俺が大切に思うものを一緒に持って、どれも大切だと必死になってくれる。