桜は散らず
桜という名前の女の子

桜との出会い

僕のいつもの夕飯は、大学近くの中華料理店「朋友」でとることにしていた。そこは、10人も入ればいっぱいになるような、小さな店だったが、味がよく、また、中国から来たマスターも感じが良くて好きだった。そして、春になったばかりのその日も、卒業実験の合間を縫って「朋友」に行ったのである。


ドアを開けてすぐに、僕は異常に気づいた。マスターはおろおろしている。テーブルには、不良大学生たちが陣取って、大声で笑ったり叫んだり、とにかくうるさかった。しかも、テーブルに料理はほとんど並んでおらず、安いウーロン茶が一杯ずつ置いてあっただけだった。その騒がしさに顔をしかめつつ、僕はいつもの席に腰を下ろして、これまたいつものメニュー、麻婆丼を頼んだのであった。


注文を取りにきたのは、新人の女の子だった。名札には、「桜」と書かれている。それが名字なのか名前なのかはわからなかった。注文を繰り返す繊細で優しい声に、中国訛りはなかった。珍しく日本人のスタッフを雇ったのだろうか。僕は少し不思議に思いながら、店の本棚に突っ込んである週刊誌を手にした。


女の子が、麻婆丼を運んできてくれた。これこれ、これが楽しみなのだ。ほどよい辛み、ごはんに絡むとろみ、僕の好きな豆腐。この料理が、「朋友」で一番好きだった。女の子は、よく気がつく子で、サービスの水が半分になっているのを見て、早速継ぎ足してくれた。そして、僕が割り箸を手に取ると、どうぞごゆっくり、と丁寧に礼をした。とても感じのいい子だ。


僕は、麻婆丼を食べながら、女の子を観察した。年は、僕と同じか、少し年上くらいだろうか。長い髪はまとめて、きっちりとおくれ毛もピンで留めていて、清潔感がある。マスターと何やら言葉を交わしながら、にっこりと笑ったその顔は、なんとも言えない愛嬌があり、名札の通り、桜の花のように美しくほころんでいた。


会計の時に、僕は「ごちそうさまでした」と彼女に言った。女の子は、やっぱり桜のように、ほんのりと頬をピンク色に染めて、「ありがとうございました」と言ってくれた。おつりをもらうときに、彼女の指が僕の掌に触れて、どきりとした。
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