桜は散らず
恋は桜吹雪に包まれたまま
公園は、もう見物客が押しかけてきていたが、僕は穴場を知っていた。そこは、夜桜が一望できるが、客は少ない、静かな最高の場所なのだ。僕と桜は、そこまでの道を、お互いの暗くなった足元を気遣いながら歩いていった。
「素敵!」
桜の声はいくらか上ずっていた。確かに、眺めはよかった。夕焼けと夜の闇が混ざったパレットのような空に、ライトアップされた妖艶な夜桜が、その紅色にも似たピンク色の花を咲かせていた。そして、客はやはり少ない。僕は、夜桜に見とれる彼女に心を奪われていた。
「で、お話って何ですか?」
僕が尋ねると、桜は近くにあったベンチに座った。僕も隣に腰掛ける。お互いの体温が感じ取れそうなほどに、近い距離。まだ肌寒い夜桜の季節に、僕らはそっとお互いの温かみを感じていた。
「私、中国へ帰るんです」
突然の告白だった。僕は絶句した。桜はゆっくり話し出す。
「実は、中国で職が見つかったんです。ずっとなりたくて勉強していた、日本語の通訳検定に合格して、通訳になれたんです。そして、田舎の日本語学校でも非常勤で教えることになっています。本当は、もう少し『朋友』で働いて、お金を貯めるつもりでしたが、掛け持ちしている居酒屋のアルバイトで、意外にお金ができたものですから、早めに帰国することになったんです。家族も一緒に」
「ご家族も、日本にいらしたんですか?」
桜は、少しためらってからうなずいた。
「はい。私の祖母は、日本人なんです。といっても、もう日本語は話せなくて、戦争のときに中国に置き去りにされた孤児なんですが。運がよくて、日本の親戚が見つかって、私たち一家は、中国の農村の貧しさから逃れるために、祖母の親戚を頼って日本に来たんです。でも、祖母は日本人でも、私たちは中国人。私は日本で生まれ育ちましたが、ずっと差別されてきました。親族からも」
彼女の丸い肩が震え出した。目にはいっぱい涙が溜まっている。
「私の名前、日本人みたいでしょう。祖母がつけてくれたんです。中国に渡る前に、祖母が日本で見た最後の風景が、満開の桜の花だったらしくて……そして、祖母は私を『さくら』としか呼びませんでしたし、家族もそうでした。でも、それは通称で、本当の名前は『イン』なんです。劉桜(リウイン)です。だけど、日本人からは、中国人のくせに日本の名前なんて生意気だと言われるし、中国人からは、日本人みたいな名前だといい顔をされたことがありません。それでも、この名前は好きです。今日、この満開のきれいな桜を見て、祖母の気持ちが分かったような気がするから」
桜は、夜桜を遠い目で見つめた。涙が一筋零れ落ちた。それは、風邪に舞う桜の花びらが、一粒の真珠になったかのようにきらりと光った。
「石田さんに会えて、楽しい時間を過ごせて本当によかった。ありがとうございます」
桜の言葉に、僕は複雑な思いを抱いていた。自分の恋心を、彼女に伝えたい。でもそれは、祖国の中国で、新しい未来を踏み出そうとしている彼女の妨げになるかもしれない。やはり彼女にとっては、日本は異国で、中国が母国なのだ。僕は、彼女の決断を尊重しようと決めた。そして告白はあきらめた。ただ、こう言った。
「桜が、きれいですね」
桜は、夜桜を目を細めて見つめていた。
「本当に、きれい。桜が、こんなにきれいだったなんて、知らなかったです」
僕は、桜に聞こえないように、口の中でささやくように言った。
「僕は、桜が好きです。この夜を、ずっと忘れません」
僕たち二人は、ずっと夜桜を見つめていた。やがて、一陣の風が桜吹雪を生み、僕たちを包んだ。ピンク色の雪の結晶のような、美しい嵐は、桜の未来と僕の胸に秘めた恋心を、優しくくるんだ……。
「素敵!」
桜の声はいくらか上ずっていた。確かに、眺めはよかった。夕焼けと夜の闇が混ざったパレットのような空に、ライトアップされた妖艶な夜桜が、その紅色にも似たピンク色の花を咲かせていた。そして、客はやはり少ない。僕は、夜桜に見とれる彼女に心を奪われていた。
「で、お話って何ですか?」
僕が尋ねると、桜は近くにあったベンチに座った。僕も隣に腰掛ける。お互いの体温が感じ取れそうなほどに、近い距離。まだ肌寒い夜桜の季節に、僕らはそっとお互いの温かみを感じていた。
「私、中国へ帰るんです」
突然の告白だった。僕は絶句した。桜はゆっくり話し出す。
「実は、中国で職が見つかったんです。ずっとなりたくて勉強していた、日本語の通訳検定に合格して、通訳になれたんです。そして、田舎の日本語学校でも非常勤で教えることになっています。本当は、もう少し『朋友』で働いて、お金を貯めるつもりでしたが、掛け持ちしている居酒屋のアルバイトで、意外にお金ができたものですから、早めに帰国することになったんです。家族も一緒に」
「ご家族も、日本にいらしたんですか?」
桜は、少しためらってからうなずいた。
「はい。私の祖母は、日本人なんです。といっても、もう日本語は話せなくて、戦争のときに中国に置き去りにされた孤児なんですが。運がよくて、日本の親戚が見つかって、私たち一家は、中国の農村の貧しさから逃れるために、祖母の親戚を頼って日本に来たんです。でも、祖母は日本人でも、私たちは中国人。私は日本で生まれ育ちましたが、ずっと差別されてきました。親族からも」
彼女の丸い肩が震え出した。目にはいっぱい涙が溜まっている。
「私の名前、日本人みたいでしょう。祖母がつけてくれたんです。中国に渡る前に、祖母が日本で見た最後の風景が、満開の桜の花だったらしくて……そして、祖母は私を『さくら』としか呼びませんでしたし、家族もそうでした。でも、それは通称で、本当の名前は『イン』なんです。劉桜(リウイン)です。だけど、日本人からは、中国人のくせに日本の名前なんて生意気だと言われるし、中国人からは、日本人みたいな名前だといい顔をされたことがありません。それでも、この名前は好きです。今日、この満開のきれいな桜を見て、祖母の気持ちが分かったような気がするから」
桜は、夜桜を遠い目で見つめた。涙が一筋零れ落ちた。それは、風邪に舞う桜の花びらが、一粒の真珠になったかのようにきらりと光った。
「石田さんに会えて、楽しい時間を過ごせて本当によかった。ありがとうございます」
桜の言葉に、僕は複雑な思いを抱いていた。自分の恋心を、彼女に伝えたい。でもそれは、祖国の中国で、新しい未来を踏み出そうとしている彼女の妨げになるかもしれない。やはり彼女にとっては、日本は異国で、中国が母国なのだ。僕は、彼女の決断を尊重しようと決めた。そして告白はあきらめた。ただ、こう言った。
「桜が、きれいですね」
桜は、夜桜を目を細めて見つめていた。
「本当に、きれい。桜が、こんなにきれいだったなんて、知らなかったです」
僕は、桜に聞こえないように、口の中でささやくように言った。
「僕は、桜が好きです。この夜を、ずっと忘れません」
僕たち二人は、ずっと夜桜を見つめていた。やがて、一陣の風が桜吹雪を生み、僕たちを包んだ。ピンク色の雪の結晶のような、美しい嵐は、桜の未来と僕の胸に秘めた恋心を、優しくくるんだ……。