マイ リトル イエロー [完]
殺意に限りなく近い怒りを感じる……。
私はなんとかぐっと怒りを堪えて、冷めた黒い液体が少し残ったマグカップを流しに持って行った。
このマグカップも、私が今着ている有名ブランドのエプロンも、都内の一等地にあるこのタワーマンションも、全部彼のお金で買ったものだから。私が今働いていることを、彼はあまりよく思っていないのに、無理矢理私の我儘を通して貰っているから。
のど元までこみ上げた怒りを、私はいつもその二つの理由でなんとか閉じ込めている。
そもそも私が彼と結婚できたのも、奇跡としか言いようのないことであった。
大手企業の、もはや社員食堂とは言えないような、ダイニングカフェのようなオシャレな食堂で私は働いていた。
料理をすることは昔から好きだったから、殆ど女しかいないこの職場は体力勝負でもちろんきつかったけど、それなりにやりがいは感じていた。
そんな中、いつも『御馳走様です』と言って食器を返却してくれる社員さんがいた。それが聡真さんだった。
気難しそうな顔をしているのに、律儀に『御馳走様』と言ってくれる彼。そのギャップに、私は日々小さな幸せを感じていた。
なのにここ最近、御馳走様、という言葉すら聞いていない。
何故なら、彼は接待で外食をして帰ってくるからだ。
私はその唯一の小さな幸せですら、最近感じられずにいる。
『旦那があんまり家にいないなんて、最高じゃない! いつでも友達と遊びに行けるし、ストレスは溜まらないし』。
結婚して7年目の先輩の主婦はそう言っていたけど、私の唯一の幸せは、彼が言う“御馳走様”だったから。
ずっと一人暮らしをしてきた私にとって、食卓を二人で囲むことは、私にとってかなり重要なことであった。
彼はもしかしたらそうじゃないのかもしれない、と気付いたのは、本当にここ数か月内での話だ。
「……明日は夕食どうするの?」
マグカップを洗いながら、私は殆ど諦めたように問いかけた。
一晩置いたコーヒーの汚れはなかなか落ちにくいことを彼は知っているのだろうか。
「ああ、明日は家で食べるよ」
「えっ」
不満を抱きながら洗っていると、予想外の返事がきたので私は思わずマグカップを落としそうになった。
「ずっと外食で飽き飽きしてたんだ、楽しみにしてるよ」
「わ、分かりました……!」
「ふ、なんで敬語だよ」
久々に聡真さんとご飯を一緒に食べられるのか。
私の単純な精神構造は、みるみるうちにさっきまでの怒りを打ち消して行った。
嬉しい、何を作ろう、折角だし聡真さんが好きなものを作ろう。
トマトとバジルとモッツァレラのカプレーゼは我が家の定番だし、春野菜をふんだんに使った生パスタも良い。この間お土産でもらった赤ワインもあるから、どうせならそれに合った肉料理を……。
これは職業病だろうか。頭の中で次々に献立が組立てられていく。
聡真さんのたった一言で、こんなにも日々が色濃く鮮明になっていく。
私はやっぱり、彼のことが好きなのだ。
彼の一言で一喜一憂するたびに、私は一々そのことを実感せざるを得なくなる。
なんだか悔しいし、負けた気もする。
なのに不思議と幸せな気持ちになってしまうのだった。