恋するバンコク
「ここ?」
結は訝しげにタワンを振り返った。後ろでは、BTSが高架を走る音が聞こえてくる。結が住んでいた時代にはなかった電車が開通したおかげで、バンコクでの暮らしはずっと便利になった。
そう、と答えるタワンはニコニコと笑っている。結はもう一度目の前を振り返った。すぐ脇を会社帰りらしい女性を後ろに乗せたバイクタクシーが通り過ぎて、一歩脇に引く。
店の軒先にぶら下がっている白熱球や通りを行き交う車や三輪オートバイのトゥクトゥクのヘッドライトが、夜道を照らしている。道路脇に延々と並ぶ屋台。砕いた氷に漬けられた名前のわからない巨大な魚を、老婆が包丁で捌いている。羽を毟られて茹であがった鶏が逆さに吊るされ、その周りで注文の順番を並ぶ人たちがスマホをいじっていた。
BTSの走る音、中華なべを振るうおばちゃんに注文を言う声、バイクが三台続けて車の間を縫うように走る。
あたりは高級ホテルには無い喧騒にあたりは満ちていた。
「なんで?」
訝しげにタワンを振り返る。いつも行く、ビジネスを兼ねた食事、とは全然ちがう。
タワンは笑みを浮かべて、後ろから連なって来るバイクタクシーから守るように結の肩を抱いた。
「懐かしくない?」
結の肩を抱いたまま顔を覗きこむ。一連の動作に意識が持っていかれて、タワンの言ってることを理解するのが遅れた。
「なにが」
「こういうの、昔もよく見てたんじゃない?」
まるで知ってるようにタワンは言って、屋台を目で促がす。結も一緒に辺りを見渡した。
屋台骨にビニールシート一枚を被せただけの簡単な露天。ベタベタと貼られたタイ語の看板。なんの肉だかわからない、串焼きにされているなにかが香ばしい匂いを放つ。屋台の脇に置かれている沢山の調味料は、使い古されているのかどれもべたべたと汚れている。漬物の饐えた匂いと、大きく音をたててフルーツを砕くミキサー。いろんな匂いが混ざり合って、独特の「屋台のにおい」になる。
ふいにその景色が、十六年前と重なった。コンドミニアムの前に並んでいた屋台も、こういう感じだった。記憶がおぼろげにふわりと浮かぶ。
そうだ。お腹を壊すから食べちゃだめ、そう言われていた屋台は幼い結にはちょっと恐くて、そしてずいぶんと魅力的なものだったのだ。
「結、なにを食べる?」
誘うようにタワンが笑う。それまでどこか張っていた肩や背中の力が抜け、おもわず笑みを返していた。視界の端で、タワンが驚いたように笑顔を引っこめて結をまじまじと見ていた。けれど結は屋台を見ることに意識がいっていて、そんな表情の変化には気づかなかった。
車道を挟んで長く続く屋台街。地元の人に混ざって、タブレットで辺りを撮る観光客も多い。人の合間をすり抜けながら興味が惹かれたものを指でさせば、迷わずタワンが買ってくれた。さっきからいい匂いをさせている串焼き、透明のスープに入ったバミーという細麺、ココナッツ味の焼き菓子。
それらを両手に抱えてもって、笑い合いながらプラスチック製のテーブルにつく。
「それなに?」
タワンが醤油挿しを二つ持ってくる。その中に、それぞれ違う種類の液体が入っていた。
「調味料だよ。ナンプラーと、こっちは唐辛子。緑色のは日本人には辛いと思うから、ちょっとにしたほうがいい」
ベースの味に自分で色んな調味料を足して食べるのがタイスタイルなんだと、慣れた手つきで唐辛子を入れるタワンを見て、口元に笑みが浮かぶ。
今まで何度も一緒に食事してきたけど、こんな場所は初めてだった。だから、こういう場所でのタワンの所作もはじめて見る。真剣な顔でディナーコースのメニューを見る時とはちがう、どこかリラックスした表情。無造作に肘を突いて、テーブルをひとさし指と中指で弾くように叩く、そんなちょっとしたしぐさもどこか新鮮だ。
「おいしい」
これお薦め、と言われて買ったバミーは、麺に卵を練っているという。だからなのか、黄色い麺はそれ自体が濃厚でモチモチしていてとてもおいしい。お椀から顔を上げて言えば、タワンもニッコリと笑う。
「たまにはこういうところもいいでしょ」
そうだね、と頷きながら、
「でもいいの? 仕事にならないんじゃない?」
心配になって尋ねる。結は新鮮でも、タワンにしてみれば慣れた場所だろう。一人では行けないという競合ホテルを優先したほうが良かったんじゃないだろうか。
結の懸念を振り払うようにタワンは明るく笑った。
「いいんだ。結に喜んでほしかったから」
え、と口の中で呟く結に、どこか悪戯っぽい顔で続ける。
「これはビジネスじゃない。ただのデートだよ」
デート?
予想してない単語を言われ、結は曖昧に笑った。
「いつもの場所のほうが、よっぽどデートっぽいんじゃない?」
茶化すことで話題を終わらせようとする。タワンは相変わらず口元に笑みを残しているのに、その目がなぜか結の内面を探っているように思えてしまう。どうしていいかわからず、目をそらして食事に集中している振りをした。
昨日から。どこかたまに、おかしい。
あの、手を繋がれたときから。
いいじゃん支配人。かっこいいし、お金持ちだしさ
アイスの言葉が急にポンと再現されて、持っていた蓮華がプラスチックのボールの中で滑る。
ちがう。アイスは、なんか色々勘違いしてる。
そんな可能性についてあれこれ考えるのは、タワンに失礼だ。この親切なタイ人は宿を提供してくれて、こうやって面倒も見てくれる。それだけなんだから。
乱れた思考に振り回されて、落ち着けるように無意識にペンダントを触っていた。バンコクに来てからずっと身につけているペンダント。仕事中も制服のしたに忍ばせて、お守りみたいに持っていた。
「それ」
小さな声。両肘をテーブルにつけてゆったりと両腕を組んだタワンが、結の握るペンダントを興味深げに覗き込んでいる。
「ずっとつけてるよね。大事なもの?」
掌で握ったペンダントを見下ろす。結の手の温度が移って、ひんやりした石は優しいぬくもりを持つ。
こくん、ひとつ頷く。
「友達がくれたものなの」
結と離れたくないと泣いた小さな親友を思い出す。知らず口元が綻ぶ。
「持ってると、素敵なことが起こるよって」
そう教えてくれたのは、大人の女のひと。失くさないで大切にしなさいと結に告げた。
ふっと、皮肉めいた笑みが薄く浮かぶ。
素敵なことは、起きなかったけど。
前にテレビで見た、高い占いに何万円も支払う女性たちの気もちが、今なら理解できる。未来ってなんて不安な代物だろう。このペンダントを今さら肌身離さず持っていたって、もういろんなことが手遅れなのはよくわかってるのに。
ユイ。
名前を呼ばれる。顔を上げるより先に、カフェオレ色の手がこちらに伸びる。ペンダントごと、結の手を握った。手の甲が、冷たい石とはちがう熱を感じる。
ぼんやりと顔を上げれば、少し眉を寄せたタワンが結を見つめていた。
「そんな顔しないで」
どんな顔をしてるっていうんだろう。彫りの深いタワンの鼻梁や瞼に、深い影ができる。屋台の上を覆う夜空のように、真っ黒な。
「君はときどき、すごく悲しそうな顔するよ。気づいてる?」
二人の間には食べかけの麺が入ったお椀と発泡スチロールでできた食べ物の容器。周りにはシンハービールで酔った地元の人たち。そんな中で、低くかすれた声でタワンは言った。
「そんな顔を見せるから紳士でいようと思ってたけど、ちょっともう、無理そうだ」
ペンダントを握っていた手をゆるりとほどかれ、そのまま引かれる。昨日のように握られて、ぼうっとしている結に薄く笑いかけると。
その手の甲に口付けた。
「――――!」
ガタン、とプラスチックのテーブルが揺れて、お椀に残っていたスープがびちゃりと零れる。思い切り手を振り払った結は、
「か、らかわないで」
くちづけられたほうの手を片方の手で握りこんで身を引いた。バタバタと騒ぐ心臓を必死で諌める。
ほらこれもまた、親愛表現が日本人より過激な外人ならではのジョークだ。本気に取る必要なんてない。自分に言い聞かせる。
結をじっと見ていたタワンに、笑みはない。タワンの黒い髪が、乾季のさらりとした風に煽られて目元を少し隠す。獲物に飛びかかる寸前の黒豹を思わせる静かな佇まいに、喉の奥が震えた。
「からかってないよ」
ゆっくりとタワンが告げる。
「僕は君が好きだ」
結たちの脇を小さな子ども二人を前に立たせたバイクが通り抜ける。大きな笑い声、スマホの着信音。喧騒が、結とタワンの周りで弾かれる。
信じられない気もちで相手をぼうと見た。
「仕事を言い訳にしなきゃ食事にも付き合ってくれない。わかってる、これはベストタイミングじゃないって」
ふっと眉を寄せて痛みに耐えるような顔を見て、心臓が勝手に鳴った。一切の思考を挟まない、本能的な胸の高鳴り。
甘く苦悩する彼は美しかった。
いつのまにか再び手を取られていた。指先が編むように結の指に絡む。驚きすぎて固まった結は、抵抗できなかった。
「宿がないって聞いて、チャンスだと思った。普通、いくらなんでも働かないか、なんて言わないよ」
結の指を優しく撫で上げるタワンの指先。優しい声と優しいしぐさで、畳み掛けるように結を追いつめることを言う。言われていることの意味を正しく噛み砕く余裕もないままに、途方に暮れた声を出した。
「なんで……?」
出た声は、眠りに就く直前の子どものように頼りなげだった。
「いつから、なの」
タワンのクスリと笑う気配。
「それは、また今度ね。でも結、知っておいて」
タワンがそっと結の体を起こす。タワンの遥か頭上に、白熱灯のようなぼんやり白く丸い月。その月よりも光る目で、タワンは囁くように言った。
「僕は必ず、君を手に入れるよ。君に起きる素敵なことは、僕が全部叶えてあげる」
結は訝しげにタワンを振り返った。後ろでは、BTSが高架を走る音が聞こえてくる。結が住んでいた時代にはなかった電車が開通したおかげで、バンコクでの暮らしはずっと便利になった。
そう、と答えるタワンはニコニコと笑っている。結はもう一度目の前を振り返った。すぐ脇を会社帰りらしい女性を後ろに乗せたバイクタクシーが通り過ぎて、一歩脇に引く。
店の軒先にぶら下がっている白熱球や通りを行き交う車や三輪オートバイのトゥクトゥクのヘッドライトが、夜道を照らしている。道路脇に延々と並ぶ屋台。砕いた氷に漬けられた名前のわからない巨大な魚を、老婆が包丁で捌いている。羽を毟られて茹であがった鶏が逆さに吊るされ、その周りで注文の順番を並ぶ人たちがスマホをいじっていた。
BTSの走る音、中華なべを振るうおばちゃんに注文を言う声、バイクが三台続けて車の間を縫うように走る。
あたりは高級ホテルには無い喧騒にあたりは満ちていた。
「なんで?」
訝しげにタワンを振り返る。いつも行く、ビジネスを兼ねた食事、とは全然ちがう。
タワンは笑みを浮かべて、後ろから連なって来るバイクタクシーから守るように結の肩を抱いた。
「懐かしくない?」
結の肩を抱いたまま顔を覗きこむ。一連の動作に意識が持っていかれて、タワンの言ってることを理解するのが遅れた。
「なにが」
「こういうの、昔もよく見てたんじゃない?」
まるで知ってるようにタワンは言って、屋台を目で促がす。結も一緒に辺りを見渡した。
屋台骨にビニールシート一枚を被せただけの簡単な露天。ベタベタと貼られたタイ語の看板。なんの肉だかわからない、串焼きにされているなにかが香ばしい匂いを放つ。屋台の脇に置かれている沢山の調味料は、使い古されているのかどれもべたべたと汚れている。漬物の饐えた匂いと、大きく音をたててフルーツを砕くミキサー。いろんな匂いが混ざり合って、独特の「屋台のにおい」になる。
ふいにその景色が、十六年前と重なった。コンドミニアムの前に並んでいた屋台も、こういう感じだった。記憶がおぼろげにふわりと浮かぶ。
そうだ。お腹を壊すから食べちゃだめ、そう言われていた屋台は幼い結にはちょっと恐くて、そしてずいぶんと魅力的なものだったのだ。
「結、なにを食べる?」
誘うようにタワンが笑う。それまでどこか張っていた肩や背中の力が抜け、おもわず笑みを返していた。視界の端で、タワンが驚いたように笑顔を引っこめて結をまじまじと見ていた。けれど結は屋台を見ることに意識がいっていて、そんな表情の変化には気づかなかった。
車道を挟んで長く続く屋台街。地元の人に混ざって、タブレットで辺りを撮る観光客も多い。人の合間をすり抜けながら興味が惹かれたものを指でさせば、迷わずタワンが買ってくれた。さっきからいい匂いをさせている串焼き、透明のスープに入ったバミーという細麺、ココナッツ味の焼き菓子。
それらを両手に抱えてもって、笑い合いながらプラスチック製のテーブルにつく。
「それなに?」
タワンが醤油挿しを二つ持ってくる。その中に、それぞれ違う種類の液体が入っていた。
「調味料だよ。ナンプラーと、こっちは唐辛子。緑色のは日本人には辛いと思うから、ちょっとにしたほうがいい」
ベースの味に自分で色んな調味料を足して食べるのがタイスタイルなんだと、慣れた手つきで唐辛子を入れるタワンを見て、口元に笑みが浮かぶ。
今まで何度も一緒に食事してきたけど、こんな場所は初めてだった。だから、こういう場所でのタワンの所作もはじめて見る。真剣な顔でディナーコースのメニューを見る時とはちがう、どこかリラックスした表情。無造作に肘を突いて、テーブルをひとさし指と中指で弾くように叩く、そんなちょっとしたしぐさもどこか新鮮だ。
「おいしい」
これお薦め、と言われて買ったバミーは、麺に卵を練っているという。だからなのか、黄色い麺はそれ自体が濃厚でモチモチしていてとてもおいしい。お椀から顔を上げて言えば、タワンもニッコリと笑う。
「たまにはこういうところもいいでしょ」
そうだね、と頷きながら、
「でもいいの? 仕事にならないんじゃない?」
心配になって尋ねる。結は新鮮でも、タワンにしてみれば慣れた場所だろう。一人では行けないという競合ホテルを優先したほうが良かったんじゃないだろうか。
結の懸念を振り払うようにタワンは明るく笑った。
「いいんだ。結に喜んでほしかったから」
え、と口の中で呟く結に、どこか悪戯っぽい顔で続ける。
「これはビジネスじゃない。ただのデートだよ」
デート?
予想してない単語を言われ、結は曖昧に笑った。
「いつもの場所のほうが、よっぽどデートっぽいんじゃない?」
茶化すことで話題を終わらせようとする。タワンは相変わらず口元に笑みを残しているのに、その目がなぜか結の内面を探っているように思えてしまう。どうしていいかわからず、目をそらして食事に集中している振りをした。
昨日から。どこかたまに、おかしい。
あの、手を繋がれたときから。
いいじゃん支配人。かっこいいし、お金持ちだしさ
アイスの言葉が急にポンと再現されて、持っていた蓮華がプラスチックのボールの中で滑る。
ちがう。アイスは、なんか色々勘違いしてる。
そんな可能性についてあれこれ考えるのは、タワンに失礼だ。この親切なタイ人は宿を提供してくれて、こうやって面倒も見てくれる。それだけなんだから。
乱れた思考に振り回されて、落ち着けるように無意識にペンダントを触っていた。バンコクに来てからずっと身につけているペンダント。仕事中も制服のしたに忍ばせて、お守りみたいに持っていた。
「それ」
小さな声。両肘をテーブルにつけてゆったりと両腕を組んだタワンが、結の握るペンダントを興味深げに覗き込んでいる。
「ずっとつけてるよね。大事なもの?」
掌で握ったペンダントを見下ろす。結の手の温度が移って、ひんやりした石は優しいぬくもりを持つ。
こくん、ひとつ頷く。
「友達がくれたものなの」
結と離れたくないと泣いた小さな親友を思い出す。知らず口元が綻ぶ。
「持ってると、素敵なことが起こるよって」
そう教えてくれたのは、大人の女のひと。失くさないで大切にしなさいと結に告げた。
ふっと、皮肉めいた笑みが薄く浮かぶ。
素敵なことは、起きなかったけど。
前にテレビで見た、高い占いに何万円も支払う女性たちの気もちが、今なら理解できる。未来ってなんて不安な代物だろう。このペンダントを今さら肌身離さず持っていたって、もういろんなことが手遅れなのはよくわかってるのに。
ユイ。
名前を呼ばれる。顔を上げるより先に、カフェオレ色の手がこちらに伸びる。ペンダントごと、結の手を握った。手の甲が、冷たい石とはちがう熱を感じる。
ぼんやりと顔を上げれば、少し眉を寄せたタワンが結を見つめていた。
「そんな顔しないで」
どんな顔をしてるっていうんだろう。彫りの深いタワンの鼻梁や瞼に、深い影ができる。屋台の上を覆う夜空のように、真っ黒な。
「君はときどき、すごく悲しそうな顔するよ。気づいてる?」
二人の間には食べかけの麺が入ったお椀と発泡スチロールでできた食べ物の容器。周りにはシンハービールで酔った地元の人たち。そんな中で、低くかすれた声でタワンは言った。
「そんな顔を見せるから紳士でいようと思ってたけど、ちょっともう、無理そうだ」
ペンダントを握っていた手をゆるりとほどかれ、そのまま引かれる。昨日のように握られて、ぼうっとしている結に薄く笑いかけると。
その手の甲に口付けた。
「――――!」
ガタン、とプラスチックのテーブルが揺れて、お椀に残っていたスープがびちゃりと零れる。思い切り手を振り払った結は、
「か、らかわないで」
くちづけられたほうの手を片方の手で握りこんで身を引いた。バタバタと騒ぐ心臓を必死で諌める。
ほらこれもまた、親愛表現が日本人より過激な外人ならではのジョークだ。本気に取る必要なんてない。自分に言い聞かせる。
結をじっと見ていたタワンに、笑みはない。タワンの黒い髪が、乾季のさらりとした風に煽られて目元を少し隠す。獲物に飛びかかる寸前の黒豹を思わせる静かな佇まいに、喉の奥が震えた。
「からかってないよ」
ゆっくりとタワンが告げる。
「僕は君が好きだ」
結たちの脇を小さな子ども二人を前に立たせたバイクが通り抜ける。大きな笑い声、スマホの着信音。喧騒が、結とタワンの周りで弾かれる。
信じられない気もちで相手をぼうと見た。
「仕事を言い訳にしなきゃ食事にも付き合ってくれない。わかってる、これはベストタイミングじゃないって」
ふっと眉を寄せて痛みに耐えるような顔を見て、心臓が勝手に鳴った。一切の思考を挟まない、本能的な胸の高鳴り。
甘く苦悩する彼は美しかった。
いつのまにか再び手を取られていた。指先が編むように結の指に絡む。驚きすぎて固まった結は、抵抗できなかった。
「宿がないって聞いて、チャンスだと思った。普通、いくらなんでも働かないか、なんて言わないよ」
結の指を優しく撫で上げるタワンの指先。優しい声と優しいしぐさで、畳み掛けるように結を追いつめることを言う。言われていることの意味を正しく噛み砕く余裕もないままに、途方に暮れた声を出した。
「なんで……?」
出た声は、眠りに就く直前の子どものように頼りなげだった。
「いつから、なの」
タワンのクスリと笑う気配。
「それは、また今度ね。でも結、知っておいて」
タワンがそっと結の体を起こす。タワンの遥か頭上に、白熱灯のようなぼんやり白く丸い月。その月よりも光る目で、タワンは囁くように言った。
「僕は必ず、君を手に入れるよ。君に起きる素敵なことは、僕が全部叶えてあげる」