恋するバンコク
彼から逃げる
鏡台の前で髪を束ねているアイスが、醒めたような目で鏡越しに視線を送ってくる。
「ね、ほんとに出て行くの」
結は答える代わりにギュウギュウとトランクケースを押して中を閉じた。トランクの鍵を閉めた瞬間に中にパスポートを入れていたことに気がつき、忌々しく思いながら再び中を開封する。
「結」
どこか厳しさを含む声に、顔を上げずに応える。
「もう二週間になるしね。そろそろ帰らないとって思ってたから」
トランクの内ポケットに入れているパスポートを取り出す。ビザ無しでこの国にいられる最長期間は一ヶ月。実際、どんなに長くてもあと半分ほどしかいれない。でもそんなに長い間家を空けてもおけないから、だからこれは別に、逃げてるとかそういうわけじゃない。言い訳のように心の中で言い募る。
ふーん、とアイスはおざなりに返事をして口紅を引いた。彼女はもうホテルの制服を着ていたけど、結はここに来たときと同じシャツにジーパン姿だった。昨日まで袖を通していた制服はベッドの上に畳んで置いてある。
アイスは肌と同じブラウン色のリップを唇に馴染ませながら、
「私が結だったら、少なくともお礼くらいは言ってから出るけどね」
「それは、私だってちゃんと言うつもりだよ」
反射的にそう返しながら、内心ぎくりとする。できれば顔を合わせずにいなくなりたい、という思いがバレてるんだろうか。
アイスは素早く振り返って、にやりと笑う。
「それはよかった。今日支配人休みだから、直接会いに行ってね」
結は開いていた口をギュッと閉じて唇を噛みしめた。
僕は必ず、君を手に入れるよ。君に起きる素敵なことは、僕が全部叶えてあげる
昨夜の言葉と、結を覗き込むあの目を、否応なく思い出す。途端に頬と耳が熱くなる。
なんだあのタイ人。二重人格もいいところ。あんな強引な男だったなんて。
キスをされた手の甲をゴシゴシとこすって、ぎゅっと眉を寄せる。
でも今思えば、最初から強引だった。泊まるところがない結を、半ば無理やりホテルで働かせて。
そのとき、ふっと気づく。そういえば昨日言っていた。
宿がないって聞いて、チャンスだと思った。
あのとき、はじめて会ったときには既に、結のことを好きだったっていうことだろうか。
いつから、という問いに、きちんと答えてはくれなかったけど。
一目惚れでもされたっていうの? 私が?
「なに赤くなってんの?」
「なってない」
今さら昨夜の一言一句を思い出していると、鏡越しに指摘される。ぴしゃっと跳ね返して答えると、トランクケースをバンと勢い良く閉めた。
そう、今さらだ。彼がいつ、どんなタイミングで私を思ってくれてたとしても。これ以上傍にいる気はない。
閉じたトランクが洋服の一部を噛んでしまって、中々蓋が閉まらない。あぁもう。
きちんと鍵をかけて零れ出ないようにしたい。トランクも、自分のこのモヤモヤとした心もなにもかも。
タワンは結たちのように宿舎に泊まっているのではなく、近くにアパートを借りて住んでいた。近くの家から通いで来てるスタッフも沢山いるので、珍しいことじゃない。
アスファルトの歩道は所々穴や凹みがあって、そのたびにトランクを持ち上げないといけない。途中からはトランクの上げ下ろし自体が面倒になって、仕事のときのようにヒョイと持ち上げて歩道を歩いた。
どうせ最後だし、このまま会わずに帰ってもいいんじゃないか。何度となくそう思っては、でも、だけど、と迷う。いくらなんでもそんな不義理なことはできない、と結論が出かけては、でも、と繰り返す。
大通りに出たところで、そうだ電話、と思いつく。いきなり行って本人がいなかったら意味がない。一回電話してみて、それで出なかったら留守電だけ残して空港に向かおう。それならそんなに失礼にはならないんじゃないか。
なんの予告も無くにいなくなろうとしている所が既に失礼だろう。そう言う内側の声はひとまず無視し、手近にあった公衆電話に向かう。財布の中から初日にもらった名刺を取り出した。
ビーッ、ビーッと日本とはちがう呼び出し音が、日本のそれよりもけたたましく耳元で鳴る。五回、六回と心の中で数えて、繋がらないことにホッと頬が緩む。
切ろうとしたその時、
「Hello」
出られてしまった。
「…………あ」
耳元に流れ込んできたタワンの声に、咄嗟に固まる。
僕は君が好きだ
昨日の声を思い出して、どくりと胸が鳴る。
「カイ?(誰?)」
警戒してるのか、起き抜けなのか、少し低くかすれたタワンの声。首の後ろがカーッと熱くなって、そんな自分の反応にとまどった。
「あの、もしもし」
動揺からおもわず日本語で答えてしまう。
「結?」
電話口のタワンが、名前を呼ぶ。すぐさま言い当てられて、ひとつ大きく鳴った鼓動が落ち着く気配を見せずに騒ぎだす。受話器を握る手が汗で湿った。
「あ、はい」
「え、なんで電話? 仕事は? 今どこにいるの?」
タワンも混乱してるのか、矢継ぎ早に質問される。電話の向こうでガタッと大きな音がする。
「あの、プロンポン駅の前です」
とりあえず、答えやすいところだけ辛うじて答える。
「駅?」
途端に大きな声が返ってきて、胸の内側が縮こまる。こんな人に、今から帰ります、なんて言えるわけがないと思えてきた。やっぱり非常識だし失礼だ。
だけどもう、一緒にいられない。
もう駄目なんだ。あんな目で見られたり触られたりすることが、とても素敵で心地良いと思える時もあったけど。
今の結にとっては、ひどくこわいことだから。
ごく、と乾いた喉を鳴らす。へばりついた喉が擦れてわずかな痛みを生んだ。
「ありがとうございました、色々」
咄嗟にタイ語が出てこない。日本語で言うと、タワンが遮るように大きな声を出す。早くて聞き取れない。やっぱり外国の言葉は難しいよ、そう思ったら心のどこかがツキンと痛んだ。
「忘れません、ずっと」
黙って切るはずだったのに、気がつけばそんなことを言い添えていた。受話器を切って、その体勢のまま深く息を吐いた。タワンの家になんて行けるはずない。これ以上顔を見るのは恐かった。だからその瞬間心を占めているのは、平穏さが戻ってくることを知った安堵感だけだった。
タイに戻ってきて良かったのか、結局わからないままだった。でもきっと、出会えてよかったんだろう。穏やかな目をした、少し、いやかなり、強引なタイ人。カフェオレ色の肌をして、甘く笑う。
私のこと好きなんだってさ。
誰にともなく心の内で呟いて、笑いたくて、笑いにならないで眉が寄ってしまう。
君が好きだよ
チェックインカウンターの列に並びながら、また蘇ってきた声に落ち着かなげに耳たぶを擦る。
――どう思った?
そっと自分に問いかける。心は貝のように閉じて、黙ったまま。自分のことなのに、持て余す。結の心はこの国に来る前にオーバーヒートしてしまって、白く焼けたまま元に戻る方法がわからないでいる。
だけど。
あんなふうに目を見て心を届けられたら、この先もなにも思わないでいるなんて、できないと思う。そのくせ、これより先に進むことは考えられないのだ。
これ以上近づけないから、離れたい。
ありがとう、タワン。
向ける感謝の気もちは本物だ、と言い切れる。彼がいなかったら、きっともっと味気ない滞在になっていた。かつて自分が住んでいた場所が高級ホテルになっているのを、一瞥して残りの時間はブラブラと過ごしていただろう。
前を並ぶスーツを着たサラリーマンらしき日本人がカウンターに呼ばれた。自分の番が次に来て、トランクを少し手前に引き寄せる。体が揺れたタイミングで、首に提げたペンダントがぶらり、揺れた。この石を掴んだカフェオレ色の手を思い出して、なんとなく照れた気もちで目を伏せたその時。
ガシッ。
強い力で腕を捕まれた。驚いて振り返れば、険しい顔をしたタワンが列の間をかき分けて立っていた。結の後ろに並んでいる夫婦が、訝しげな顔をしてタワンを見ている。
「……タワン」
びっくりして名前を呟くだけの結を、タワンは力を緩めずに列から引きずりだした。
「ね、ほんとに出て行くの」
結は答える代わりにギュウギュウとトランクケースを押して中を閉じた。トランクの鍵を閉めた瞬間に中にパスポートを入れていたことに気がつき、忌々しく思いながら再び中を開封する。
「結」
どこか厳しさを含む声に、顔を上げずに応える。
「もう二週間になるしね。そろそろ帰らないとって思ってたから」
トランクの内ポケットに入れているパスポートを取り出す。ビザ無しでこの国にいられる最長期間は一ヶ月。実際、どんなに長くてもあと半分ほどしかいれない。でもそんなに長い間家を空けてもおけないから、だからこれは別に、逃げてるとかそういうわけじゃない。言い訳のように心の中で言い募る。
ふーん、とアイスはおざなりに返事をして口紅を引いた。彼女はもうホテルの制服を着ていたけど、結はここに来たときと同じシャツにジーパン姿だった。昨日まで袖を通していた制服はベッドの上に畳んで置いてある。
アイスは肌と同じブラウン色のリップを唇に馴染ませながら、
「私が結だったら、少なくともお礼くらいは言ってから出るけどね」
「それは、私だってちゃんと言うつもりだよ」
反射的にそう返しながら、内心ぎくりとする。できれば顔を合わせずにいなくなりたい、という思いがバレてるんだろうか。
アイスは素早く振り返って、にやりと笑う。
「それはよかった。今日支配人休みだから、直接会いに行ってね」
結は開いていた口をギュッと閉じて唇を噛みしめた。
僕は必ず、君を手に入れるよ。君に起きる素敵なことは、僕が全部叶えてあげる
昨夜の言葉と、結を覗き込むあの目を、否応なく思い出す。途端に頬と耳が熱くなる。
なんだあのタイ人。二重人格もいいところ。あんな強引な男だったなんて。
キスをされた手の甲をゴシゴシとこすって、ぎゅっと眉を寄せる。
でも今思えば、最初から強引だった。泊まるところがない結を、半ば無理やりホテルで働かせて。
そのとき、ふっと気づく。そういえば昨日言っていた。
宿がないって聞いて、チャンスだと思った。
あのとき、はじめて会ったときには既に、結のことを好きだったっていうことだろうか。
いつから、という問いに、きちんと答えてはくれなかったけど。
一目惚れでもされたっていうの? 私が?
「なに赤くなってんの?」
「なってない」
今さら昨夜の一言一句を思い出していると、鏡越しに指摘される。ぴしゃっと跳ね返して答えると、トランクケースをバンと勢い良く閉めた。
そう、今さらだ。彼がいつ、どんなタイミングで私を思ってくれてたとしても。これ以上傍にいる気はない。
閉じたトランクが洋服の一部を噛んでしまって、中々蓋が閉まらない。あぁもう。
きちんと鍵をかけて零れ出ないようにしたい。トランクも、自分のこのモヤモヤとした心もなにもかも。
タワンは結たちのように宿舎に泊まっているのではなく、近くにアパートを借りて住んでいた。近くの家から通いで来てるスタッフも沢山いるので、珍しいことじゃない。
アスファルトの歩道は所々穴や凹みがあって、そのたびにトランクを持ち上げないといけない。途中からはトランクの上げ下ろし自体が面倒になって、仕事のときのようにヒョイと持ち上げて歩道を歩いた。
どうせ最後だし、このまま会わずに帰ってもいいんじゃないか。何度となくそう思っては、でも、だけど、と迷う。いくらなんでもそんな不義理なことはできない、と結論が出かけては、でも、と繰り返す。
大通りに出たところで、そうだ電話、と思いつく。いきなり行って本人がいなかったら意味がない。一回電話してみて、それで出なかったら留守電だけ残して空港に向かおう。それならそんなに失礼にはならないんじゃないか。
なんの予告も無くにいなくなろうとしている所が既に失礼だろう。そう言う内側の声はひとまず無視し、手近にあった公衆電話に向かう。財布の中から初日にもらった名刺を取り出した。
ビーッ、ビーッと日本とはちがう呼び出し音が、日本のそれよりもけたたましく耳元で鳴る。五回、六回と心の中で数えて、繋がらないことにホッと頬が緩む。
切ろうとしたその時、
「Hello」
出られてしまった。
「…………あ」
耳元に流れ込んできたタワンの声に、咄嗟に固まる。
僕は君が好きだ
昨日の声を思い出して、どくりと胸が鳴る。
「カイ?(誰?)」
警戒してるのか、起き抜けなのか、少し低くかすれたタワンの声。首の後ろがカーッと熱くなって、そんな自分の反応にとまどった。
「あの、もしもし」
動揺からおもわず日本語で答えてしまう。
「結?」
電話口のタワンが、名前を呼ぶ。すぐさま言い当てられて、ひとつ大きく鳴った鼓動が落ち着く気配を見せずに騒ぎだす。受話器を握る手が汗で湿った。
「あ、はい」
「え、なんで電話? 仕事は? 今どこにいるの?」
タワンも混乱してるのか、矢継ぎ早に質問される。電話の向こうでガタッと大きな音がする。
「あの、プロンポン駅の前です」
とりあえず、答えやすいところだけ辛うじて答える。
「駅?」
途端に大きな声が返ってきて、胸の内側が縮こまる。こんな人に、今から帰ります、なんて言えるわけがないと思えてきた。やっぱり非常識だし失礼だ。
だけどもう、一緒にいられない。
もう駄目なんだ。あんな目で見られたり触られたりすることが、とても素敵で心地良いと思える時もあったけど。
今の結にとっては、ひどくこわいことだから。
ごく、と乾いた喉を鳴らす。へばりついた喉が擦れてわずかな痛みを生んだ。
「ありがとうございました、色々」
咄嗟にタイ語が出てこない。日本語で言うと、タワンが遮るように大きな声を出す。早くて聞き取れない。やっぱり外国の言葉は難しいよ、そう思ったら心のどこかがツキンと痛んだ。
「忘れません、ずっと」
黙って切るはずだったのに、気がつけばそんなことを言い添えていた。受話器を切って、その体勢のまま深く息を吐いた。タワンの家になんて行けるはずない。これ以上顔を見るのは恐かった。だからその瞬間心を占めているのは、平穏さが戻ってくることを知った安堵感だけだった。
タイに戻ってきて良かったのか、結局わからないままだった。でもきっと、出会えてよかったんだろう。穏やかな目をした、少し、いやかなり、強引なタイ人。カフェオレ色の肌をして、甘く笑う。
私のこと好きなんだってさ。
誰にともなく心の内で呟いて、笑いたくて、笑いにならないで眉が寄ってしまう。
君が好きだよ
チェックインカウンターの列に並びながら、また蘇ってきた声に落ち着かなげに耳たぶを擦る。
――どう思った?
そっと自分に問いかける。心は貝のように閉じて、黙ったまま。自分のことなのに、持て余す。結の心はこの国に来る前にオーバーヒートしてしまって、白く焼けたまま元に戻る方法がわからないでいる。
だけど。
あんなふうに目を見て心を届けられたら、この先もなにも思わないでいるなんて、できないと思う。そのくせ、これより先に進むことは考えられないのだ。
これ以上近づけないから、離れたい。
ありがとう、タワン。
向ける感謝の気もちは本物だ、と言い切れる。彼がいなかったら、きっともっと味気ない滞在になっていた。かつて自分が住んでいた場所が高級ホテルになっているのを、一瞥して残りの時間はブラブラと過ごしていただろう。
前を並ぶスーツを着たサラリーマンらしき日本人がカウンターに呼ばれた。自分の番が次に来て、トランクを少し手前に引き寄せる。体が揺れたタイミングで、首に提げたペンダントがぶらり、揺れた。この石を掴んだカフェオレ色の手を思い出して、なんとなく照れた気もちで目を伏せたその時。
ガシッ。
強い力で腕を捕まれた。驚いて振り返れば、険しい顔をしたタワンが列の間をかき分けて立っていた。結の後ろに並んでいる夫婦が、訝しげな顔をしてタワンを見ている。
「……タワン」
びっくりして名前を呟くだけの結を、タワンは力を緩めずに列から引きずりだした。